ハンカチを畳む彼女の指は、細い枝のようだとわたしは思った。 白くて、馬鹿みたいに細くて、少し気味の悪い細い枝、だと。 「君は分かってくれないと思う」 まるでどこかの優秀なアルバイターのように、 彼女はそのハンカチで照りついた水滴の机を拭いていく。 同時に視線を合わせないで、そのくせにっこりと笑って、 わたしに緩やかに話しかける仕草はわざとらしい。 まるで、責任や理由をむりやりそっちに寄せるような、そんな格好。 格好悪い、と胸の奥でつぶやく。 「頑固だから、君」 氷で薄まったカフェオレはひどく不味い。 ストローに口をつけた後で、わたしは思いきり顔をしかめてグラスを置いた。 彼女の言う『君』というのは、多分わたしの事だ。 だって、彼女の前にはわたし以外の誰もいないし、 この喫茶店でお客と呼べるような存在もわたし達以外には誰もいないのだ。 ひっそりとしたこの店は、彼女もわたしも好きな場所だった。 「でも、もういい。もう決めたから」 彼女はわたしの事を『君』という。 他人や友人にはあなた、とか名前で呼ぶのに、 どうしてかわたしに対してだけ、彼女は『君』を行使している。 わたしはそれを彼女と出会った日から今日まで、 なんの躊躇いもなく許容してきたけれど、 今、そのなぜか辛らつに聞こえる言葉に耳を傾けていると、 彼女はそう呼ぶことで私の前だけでは男で居たかったのだろうかと、ふと感じてしまう。 やわで細いわたしに寄り添い、わたしを包んでくれるわたしよりも細い彼女。 決心をつけたのを隠すような表情はてっぺきで、 わたしの感情を挟ませまいとギチギチに硬くなっている。 「・・・私、君が好きだ」 からん、と彼女のオレンジジュースの氷が音を立てた。 どうしてか彼女のグラスにはまだ氷がたっぷりと残っている。 わたしはゆっくり、出来るだけゆっくりと息をついて、 幾分も無表情にして強張った頬を、歪ませるようにもして顔を作った。 それは変に狡猾ぶった、わたしにも理解できない意地の悪い顔だ。 彼女の答えはここに来たその一歩目から知っていたけれど、 それを目の前にするとわたしは異常に動揺してしまったのだ。 「面倒で、ごめん」 彼女はわたしを限りなく慎重に見やって、また笑った。 初めから分かってた、と言うようなその顔は、 完璧な喜怒哀楽の正確さをして、完璧にわたしを射抜く。 わたしは彼女の外した目を曖昧かつ真剣に追いながら、 自身の動揺を治めようと限りなく努力した。 けれど、わたしの体は鉛と同化したように重く、だるく、そして冷たく、 唇のひとつも満足に動かないほど硬直していた。 この喫茶店に入った一歩目から、彼女の答えは知っていた。 彼女の気持ちを知った上で、わたしはこうしてここに来た。 頭で納得して、大丈夫と聞かせて、半ば堂々と彼女に付き合った。 ・・・わたしは、どうしたいのだろう。 格好悪い、という彼女へ放った言葉をわたしは思い出す。 「返事は、いいよ。私行くね。・・・ゴメンね」 伝票を慎重に抜きとって、彼女はうつむいて席を立った。 わたしの頭の上を通り抜けてゆく声は押しつぶされたような快活さで、 わたしは咄嗟に例えようのない気持ちになる。 冷房が効きすぎて寒い。 今肌に浮かぶ鳥肌はきっとその所為だと思う。 彼女は「じゃあね」と顔を見合わせないで言った。 細い枝。白い肌。上にあげた髪の毛とうなじ。フリルのキャミソール。 彼女のオレンジジュースは半分以上残っている。 薄まったオレンジ。薄まった果汁。この薄まったジュースも不味いに決まっている。 「明日、ね」 千円札を出して、四つ返ってきた100円玉を財布に収めて、 彼女はわたしに向かって小さく手を振る。 そして彼女は、高いヒールで体をおぼつかなくさせて店を出た。 歪んだ、作った顔をそのままにして、わたしは彼女の去った椅子を見つめる。 机の上には二つのグラスと、伝票入れと、メニューと、 彼女が忘れていったハンカチが置いてあった。 「・・・忘れてる。馬鹿」 絹で出来たブランドもののハンカチは光を浴びて輝いている。 こんなので机を拭いてしまうくらい、彼女の家は金持ちなのだ。 わたしはそっとハンカチを手に取り、わざとらしく触った。 それはつるつるで柔らかく、上品な感触をしていた。 彼女のようだ、とわたしは思った。 「(キスをしてあげればよかった)」 わたしはあからさまに襲ってくる悲しさをハンカチに押さえつけ、 ようやく自由に動くようになった自分の唇を撫でる。 手に、グロスのべったりとした粘つきが残る。 『キスをしてあげればよかった』。 そんなの、ただの同情心でしかない。 同情心だけの、能面のキスなんて彼女を傷つけるだけだ。 指先に残った薄ピンクの色めきは、わたしの確固としていた考えを軽々とガレキにさせる。 「(明日。明日、また会うんだ)」 快活な彼女は、明日もまたわたしに『おはよう』と告げてくれるだろう。 わたしはその屈託ないだろう顔を思い浮かべる。 その裏にはきっと悲しみも、不安も、戸惑いも、後悔も含まれているはずだ。 明日。 明日こそ、わたしは彼女に言えるだろうか。 明日こそ、わたしは彼女へ言葉を与えることができるだろうか。 今日受けとったぶんの言葉だけでも返すことができるだろうか。 格好悪いと言い放った格好悪いわたしの言葉。 顔に押しつけたハンカチからは彼女がつけていた香水の匂いがする。 わたしは既に薄れきったひどく不味いカフェオレを喉へ流し込み、 この香水の香りとこのカフェオレの味だけは忘れまいと、席を立った。 終わりと始まりの狭間 BACK |