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ぼくの視界。
あからさまな空。
そこにあるのはだぼつくような雲泥だ。
二重になった層は上澄みだけきれいな空色をして、
時おり波紋を広げては端まで届いて奇妙なかたちをさせて揺れる。
冗談のようなうつくしさ。
その裏は、その底はおどろおどろしい汚物で形成されているのに。
そこへ誰かが飛び込めば、一瞬にして空色は濁った爬虫類の背のようになるのに。

昼。
高い太陽と、少し曇ったキャンバスに鐘が鳴る。
良く鳴るように細工された音はどこまでも響いて、
それは昨日、震える手で「赤」を引いた放心状態のぼくの耳にさえ届いた。
(ああ、今日になった。)
ぼくはゆっくりと目を開き、いつもとまったく同じ部屋を見回す。
木で出来た家。
木で出来た天井。
秋の涼しい温度。
それは本当に昨日と寸分も違わない日常だ。
「あら・・・起きたのね」
先に起きていた母さんの虚ろな目と声が、ぼくをしっかりと捉える。
強張りながら笑う頬。薄いくま。
一日で母さんはげっそり痩せたように見えた。
「お早う」
ぼくはなるべく平常心を保とうとしながら母さんへ声をかけたけれど、
出てきた声は限りなく細く、震えていた。
母さんは額にべとりとついたぼくの汗を拭いて、ぼくの手を握る。
「お早う。坊や、貴方は賢い子だものね」
泣きそうな声だ。
ぼくより何倍も悲痛な声だ。
ぼくより、何倍も感情を抑えようと努力している声だ。
「母さん」
母さんは悲しんでいる。
その事実は、ぼくの心を少なからず平らにさせてくれるように感じる。
とても変だと思うけれど、自分が消えるということを・・・・、
消えるということを心から悲しんでくれる人間がいるという事実を確信できれば、
消えるべき方はどうしてか安心した気持ちになれると思うのだ。
今のぼくのように。なぜか、とても、不謹慎に。
「・・・大丈夫。母さんは、大丈夫」
胸に手を当て、腫れた目で母さんは息をついた。
疲れきった顔をむりやり歪めて、また笑った。
それはぼくと母さんの、最後ともいうべきふれ合いだった。
母さんの手は、氷のように冷たかった。

夕方。
太陽は滲んで、紫の雲が近づいている。
ぼくは母さんでない大人に手を引かれ、皆の哀れむ目を受けた。
皆は明日の朝にはもう居ない子供を見て、悲しむと同時に安堵する。
ぼくは誰よりも上等な服を着て、上等な冠をつけていた。
受け入れられるため、気に入られるため、ただそれだけのために。
「さあ、行くぞ」
母さんでない大人は東の方から飛んでくる大量のカラスに目を細めて、ぼくを促がす。
母さんは最後まで家を出ることはなかった。
ぼくは結局いちいち後ろを振り向きながら、
手をふる皆、小さくなる皆をたどたどしく眺めながらそこを出た。
向かうべき場所はわかっている。
今もカラスが飛んできている東の方だ。
ただ茫々と木や草がおおった、深い緑色の場所だ。
ぼくらは歩いて、歩いて、右へ曲がって、また歩いた。
どんどん進むうちになめされた道は獣道になって、素足まがいの足には泥がつく。
昨日、雨が降った土は湿ってぬるい温度をしていた。
垂れ下がる草。ただ大きいだけの木。あざやかな色の花。
カラスが頭上でうるさく鳴いてぼくを迎えている。
こうやって歩き、汚れていくのはぼくの足か。
ちがう。
汚れていくのは、あそこにいる全ての誰かだ。
ぼくをこうして安らいでいる、全ての愚かな誰かだ。
手を引かれたまま、早足でぼくは恨めしい重みを胸の内で吐いた。
ぼく以外の誰かなら。
ぼくでなく母さんでもない誰かなら。
そうやって、泥に汚されながらぼくは最大限まで恨めきれるものを恨んだ。
ここをたどった、全ての誰かと同じように。
ここをたどった、全ての「尊い」誰かのように。

夜。
ぼくはすっかり準備のととのった格好をしている。
あれから、この場に到着したぼくは見事な手はずで、過去最短で準備を終えた。
母さんでない大人はしっかりとぼくの手を握りしめたあと、
丁寧にもと来た場所、暖かい場所へと帰っていった。
ぼくは今、大変な姿でその時を待っている。
頭にあるのは母さんの言葉でもない、あの場所でもない、
たった6文字で済む一行のどうしようもない思いだ。
心臓はどくどくと唸りをあげて、その思いに加速をつけている。
小さなうぶ声ひとつも出すことなく、ぼくは震えたようにして冷たくしけった風を受けた。
暗闇も、時おり光る水も、明るく赤い月も、鳥と虫の声も、
ここにある全てのものが恐ろしいと思ったけれど、
それでもぼくは一ミリ動くこともせず、ここに居なければならないのだ。
逃げることはできない、と反芻するそれはぼくの中のプライドだろうか。
それともかけらぽっちの使命感だろうか。
頭上に見える月は赤い。
この日は決まって、月も星も赤く染まりぼくらの上に降りそそぐ。
黒い空に光るものたちは、とても美しい格好で映えていた。
もうすぐ流れるかもしれない液体と同じきれいな色をして、
おそらくあの場所にも、平等に生臭い光を点しているんだろう。
ぼくはあの場所で突っ伏しているだろう母さんその人だけを思い出し、
これから何年周期で訪れる赤い火を母さんが怨まなければいいと思った。
目の前にいるカラスはギャアギャアとうるさく鳴き、
いつの間にか集まった無数の動物たちはぼくの足に寄り添っている。
生きた、ふわふわした毛が執拗に足首へと絡みつき、
それはするりとした無機質な暖かい感触をぼくの心にもたらして、
少しだけぼくは、この生きもの達もいつか「死ぬのだ」ということを理解した。
「・・・・」
無言の中枢で、ぼくは、ぼくの最後の声を聞きたかった。
ぼくのため、ぼくを真っぷたつにする者のため、この動物たちのため、
そして何より母さんのために、ぼくは泣きじゃくって叫ぶべきだ、と思った。
助けてくれ、とか、
生きたい、とか、
・・・そう、死にたくない、とかと。
けれど、ぼくはそこで何を叫ぶこともなかった。
涙さえ出ないほど硬直したぼく自身は、
すでに本当のたったひとつの、絶望のかたまりだったのだ。
恐怖と諦念で感覚を殺した、たったひとつの哀れなお人形だったのだ。
ぼくは、動物たちの体温をいくら与えられても、もう生き物には戻れない。
こうやって荒く息をしていても、
溢れてくる汗や鳥肌を止められなくても。
動物たちはいまも確かにぼくに寄り添っているが、
目はこちらをつかむことなく、
眼下に広がる深い池だけに向かって光っている。
きつく縛られすぎてうっ血したようになった手首を、
ぼくはその場にいる誰にも気づかれないように微妙に位置をずらした。
赤黒く照らされたこの小さい手。
同じ色をしたあの短い棒を引いたのは、この手だ。
薄いまぶたを一瞬とじて、ぼくはその忌わしい手を暗闇に落とす。
けれどそうしたってこの手はなくならないし、
ぼくはぼくが成したこの「名誉」を受けなければいけない事実はかわらない。
空が黒を脱ぐにつれ、緊張感は折り重なっていく。
黒い池は油のように光る。
長い夜だ。
長い、長い夜だ。
それでもまだぼくは、生きているのだ。
ここでたったひとつの絶望したお人形になり果て、
迎えるべき朝へすべてを捧げているぼくは、まだ、確かに、生きている。

それはまるで、いっぺんなって戻らない紙くずの顔のように

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