「だめだ、おれ。あんたのこと好きだ」 べろんべろんに酔っ払って、彼は男の背に額を押し付けながら言った。 洒落た暗いバーのカウンターには似合わない、 どちらかと言えば大衆酒場で言うようなせりふ。 呂律が回っていないぞ、と男はグラスを回して思いながら、 その言葉にいささか引きつり笑いをしているバーテンに笑いかける。 「ああ、これは冗談だから、あまり真面目に聞かなくて結構ですよ」 酔うと誰之構わず好き好き言い回るんだよ、と付け加え、 額を腕に変えて、何回も背を叩く彼へ呆れたような目を向ける。 彼はと言えば、顔じゅうを真っ赤にして男へ絡み、 キスをしろ!とか、いいから抱けっ!とか、 他の客があからさまにどよめくような事を叫びながら、時に泣くような仕草も見せる。 「・・・大変な方ですね」 バーテンもあからさまに男に向かって気の毒な顔をする。 男は全くだと頷き、グラスを一口あおった。 「もう無茶苦茶なやつですよ。飲むわ、叫ぶわ。酔わないときは随分まともなんだがねぇ」 へぇとバーテンは相槌を打つが、 感情を隠すのが下手なのだろう、信じられないという表情だ。 それを見た男は隠すように笑いながら、もう一口飲む。 「おいっ、何話してるっ。こっち向けっ」 二人の会話に多少個人的な怒りを感じたのか、 不意に彼の手は男の背を叩くのを止め、男の肩へ伸びる。 ぐい、とつかまれて、男は彼と目線を合わせる形にさせられた。 やっぱり呂律が回っていない。飲みすぎだ。 顔が赤すぎるし、そのくせ唇は青がかっている。 そろそろ連れ出したほうがいいかもしれない。 冷静に男は彼を観察して、彼の据わっている目を眺める。 彼は上目遣いに男を睨みつけて、ギリ、と歯を食いしばった。 「なんだ、どうした?」 まったく分からない、と言った顔をして男は両肩をつかまれたまま微笑んだ。 彼の座った椅子の前にあるグラスは空っぽで、氷は溶けかかっている。 彼は、口を真一文字にして動かない。 広く深く、男の顔だけを彫るように睨むだけだった。 「・・・・飲み過ぎなんじゃあないのかい」 男は微笑むのを早々にやめて、平然と真顔で言う。 左手のグラスはまだ3分の1ほど入っていたが、 彼のグラスと同じように、氷は溶けて底には水がぴたぴたと張っていた。 手が冷たくもぬるい温度を保ち、気持ちが悪いと男は思った。 「・・・おれのこと、面倒だと思ってるでしょう、あんた」 男の肩をつかんだ手に力をもっと込めて、 悔しそうに恨めしそうに、捨てるように彼は言った。 ぐらぐら揺らいだ目とその中のどんより曇った反射板。 参ったねと男はこぼしたが、まじめな顔を崩すことはなかった。 バー全体の埃っぽい空気に身を捩じらし、男はひとつため息をつく。 「だったらどうだ?帰るのか?好き上戸さんよ」 グラスを二本指で振り、バーテンにおかわり、と告げる。 平坦なトーン。 確信に確信をつみ上げた低い山を固めるような声。 好き上戸、と例えられた彼はますます赤い顔をして、 男の肩を押すようにして両手を離し、バン!と掠るようにカウンターを馬鹿力で殴る。 「帰る。ああ、きな臭いっ」 ポケットからくしゃくしゃの万札を出し男の前に叩きつけると、 鼻息を荒くして雑な歩き方で、彼はバーの扉を押し開けた。 扉に付けてあるベルががらりと濁った音を奏で、彼の背中はドア越しに消える。 「・・・・いいんですか。あの方」 その光景がすっかり終了して静寂が訪れた後、 琥珀色の液体が注がれたグラスを置きながらバーテンは男に話し掛ける。 それを受け取って深く口に流し込みながら、男はにわかに唇を舐めながら言った。 「ああ、金は払ってくれたしな。いつもの事だよ」 皺だらけの万札を片手で伸ばし、薄目で眺める。 上からの照明にホログラムが下品に光った。 「・・・・・」 他の客の笑い声。静けさ。 クリームの灯、甘ったるい声をした女の歌うジャズ。 そんなもの全てを肴にし、ちびちびとアルコールを舌に肉に胃に染み込ませ、 たっぷり20分は酒を楽しんだ後、男は重く席を立つ。 まだ多少皺の残る万札をゆたりとバーテンに差し出し、鈍く笑ってドアを見やる。 「さて、俺も帰るよ。足りるか?」 バーテンはそれを受け取りながらグラスをとった。 「ええ、足りますよ、充分」 「それなら良い」 ポケットへ手を入れ、じゃあ、と男は進む。 「あ、おつりは」 「俺の金じゃあない。結構だ」 右手を顔のあたりまで持ってきて、左右に振る。 その仕草を一瞬だけ行って、男も店を出た。 「ふう」 外の空気はむせ返すような温度だったバーの中と違って心地よかった。 ほんのり冷たい風が、男の頬をキスするように通る。 このまま歩いて帰ろうかとも男は思う。 「おい」 しかし、その考えは右下の声に遮られる。 目を向けてみれば、そこに居たのは先ほどまで暴れていた彼だった。 立ち上がり、彼はふら付きながら男へ近づく。 暗く、よくは見えないが赤みは薄れ、傍目、酔いも少しは覚めたように見えた。 「待ってた。おれは、あんたといっしょに帰る」 彼はどんどん男へ近づき、突っ立ったままの男の手を引く。 男は己の手首をつかみ、勝手に歩きはじめる彼へ口を開きかけたが、 タクシーが車道をスピード違反気味に通り抜けるのを見て、なんとなくそれを止めた。 車道はあちこちで工事をしている。 赤いランプが注意の文字を盛り立て、遅い間隔で光る。 黄色と黒のフェンスが、その明かりにあわせて赤く写る。 白、黒、銀、紺。 さまざまなカラーの車が男たちを追いこしていく。 ひとつの手をポケット、ひとつの手を彼に任せ、 男はただ景色と彼の黒い頭を追っていた。 彼は時々思い出したように男へ向かって『なにが冗談だ好き上戸だ』とか『金を返せ』などと毒づく。 それを男はしばらく放っておいたが、徐々に暴言の度合いがエスカレートしていくのを見、 うなじを掻きながら彼の言葉を止めるために反論した。 「お前さんは自由すぎるんだ」 言動が。行動が。仕草が、表情が。 その語尾にはどんな単語がついてもよかったが、その部分を男は黙っていた。 すると彼はゆっくりとふり返り、少しだけ空しい顔をして言った。 「・・・おれだって怖い。そんなの、あんたはわかってると思ってました」 ぼつりと呟く、その声は車が通った排気の音ですぐに消えた。 しばらく二人はそのまま佇んで視線をただ交わしていたが、 遠いクラクションが鳴り、それを合図とするように彼はそれまで握っていた男の手首を離し、ひとり歩き出す。 男は放された腕をその形のまま維持していたものの、 彼が3メートルほど遠くへ背を見せると男も早足で歩き始めた。 正直、男はそれほど彼が深く考えているとは思わなかったのだ。 しかし、やけに真剣じみたあの顔を見るとその言葉ひとつひとつは真実なのだろう。 ランプや色がほのかに霞む。 とぼとぼと背中を丸くして歩く彼の背を撫でたいと不用意に男は思い、 同時に今更、アルコールが回り始めてきたと感じた。 そして遠く彼のように何を忍ぶことなく日々を生きたら、 どんなにこの身は不確かになるだろうと、とても冷たい感情で考えた。 不自由の賢さ、自由の愚かさ。そういう毎日を送るふたり BACK |