目を閉じて、目を開けて、そうすればまた何も変わらない景色が見えてくる。 変哲のない俺の部屋。無駄に心地のいい空気、風に揺れるカーテン。 横には特筆する容姿などまるでない男がいる。 目を閉じて、目を開けて、そうした後、俺を見て笑う男だ。 俺たちは何をするでもなく、正面にそびえる窓に目を向けている。 暗闇と景色の視界を境目のない時間で繰り返し、そこから見える筈の何かを待っている。 ベットに放り投げていた携帯から電話が来たのは空が随分暗くなった後だった。 見慣れた名前を掲げて暗がりで光る画面、無機質なコール。 異常なほどけたたましいその音は、小さな俺の部屋で隙間なく喚く。 一コールごとに異常なほど暴れる携帯に仕方なく応じると、 聞きなれた声で一言だけ、『いまから行く』と告げられて電話を切られた。 不機嫌が透けて見えるような、相手の気力のない声は俺の鼓膜を重く打つ。 一秒、二秒、三秒。 俺は携帯を切って、それから胸の内側で一つづつ確かめるように、小さくカウントをする。 四秒、五秒・・・と、そこで薄い玄関から、コール以上にうるさいノックが鳴り響いた。 『やっぱり五秒、きっかりだ』 更に俺は胃の奥の方で、呟く言葉を反響させる。 電話は来訪の合図、その来訪は必ず相手が電話を切った五秒後。 どこかずれてる、いつも通りの風景。 既に生活の一部のような、ぶしつけな相手の甘え。 こんな無様な有様も、もう俺たちの間では慣れっこだ。 尚も鳴り続くノックに呆れた溜息を含ませてノブを回す。 安っぽい金属製の音に、相手の影が見える。全てドアを開いて、全て格好が見えた相手。 その相手は俺の予想に少し反した、死にそうな風体で突っ立っていた。 右手にはかなり古い型の携帯を握り締めて、左手は拳だけ握り締めて、俺を見るなり容赦なく部屋に上がり込む。 「まーたーかー」 片手で相手に除けられながら、間延びした声で、俺は大袈裟にやれやれ、といった素振りで言った。 いつでも、この男は面倒なことや気に食わないことがあると俺の家に駆け込んでくる。 俺が問いただしてもその面倒なことに関しては何も言わず、だからと言って俺の部屋に来ても何をする訳でもない。 ただ相手は地べたに座りベットに凭れかかり、そこから窓を見つめるだけだ。 その儀式には一体何の意味があるのか。俺にはさっぱり分からない。 「うるさい」 呟くような悪態をつきながら、相手はやはりいつもの定位置に座り込む。 眉を顰めて、何がそうさせたのかも分かりはしない、睨みつけような視線を窓に放つ。 攻撃的な悔しさと内包的な悲しさの混じった目も、俺にとっては見慣れた目だ。 斜めから見下ろす相手の姿。 別段潔癖でもない俺の、散らかった部屋に勢いよく座りこんだ相手の尻には俺の皺くちゃな服が敷かれている。 「お前なあ」 半心の宥めの言葉と、それを跳ね除ける言葉とのささいな応酬。 意味のない攻防戦はそう長くは続かなかった。 俺は少し頭を掻きながら、哀れな俺の服に少し目をやって、相手の隣に乱暴に座る。 「来るのはいいから訳ぐらい話せよ」 何を話し掛けても、何で釣っても、一度たりともこちらは見ない。 この状態になると相手の視線を固有するのは窓だけだ。 物騒な剣幕も、厚かましく俺を拒絶する雰囲気も、しばらくは崩れない。 緩い体育座りをしながら、相手は固く口を閉ざして沈黙を主張する。 「・・・別にいいけどよ」 そうして俺はあっさりと諦めに入る。そうして、俺の言葉はすっかり独り言になる。 間隔を空けてぽつりぽつりと漏れる声は、何だか部屋の下手なBGMみたいだった。 目線にそびえる少し開いた窓からはささやかに風が吹いて、カーテンをたなびかせている。 夏の少し前の季節は、余りにも爽やかな空気で俺の肌を触って、ケラケラと弄ぶ。 そんな湿り気も不快さもない、気持ちの良すぎるくらいの気候を、俺はバカ正直に心地よく思った。 そして、相手が今持っている不機嫌さをどうも勿体無く思った。 余計な相手への、余計な俺のおせっかい。それもまた、いつものことだ。 「目え瞑ると、ちょっと安心するよな」 向かう視界は窓のまま、至極常温の声で俺は言った。 独り言の続き・・・と見せかける、それは相手に対する僅かな宥めのようなものだった。 目を瞑れば安心する。 俺の持っている、あまり自慢も出来ない持論。 別に目を瞑って気持ちを鎮めろ、と相手に強制するつもりは別段ない。 暗闇に紛れてしまえばどんなに膨れ上がった感情でも、ゆっくりと消化されていく。 今のこんな状況と、そこから飛んで見える筈の柔らかさと平穏さ。 そういった場所までの下らない過程なんかを、相手と少し共有してみたかっただけだ。 「・・・腹の中みたいだもんなあ」 次いでに出てくる余談めいた言葉は、何故だかどこか懐かしい。 母さんの腹の中というものはきっと、ひどいくらいに心地がいいものだと俺は思っている。 今感じているこの心地良ささえ、到底及ばないこととも思う。 だから、俺は目を瞑った時の暗闇やその時に感じるおかしな安堵感が好きだ。 『母親の腹の中にいる時のことを覚えていれば、きっと退屈することなんてない』。 そんなことを昔誰かが言っていた。 頭を掠める、いつかの記憶といつかの言葉。 目の前でゆらゆらと揺れるカーテンは、笑っているようにも見える。 「腹の中」 そして、相手も窓に全て向けたまま俺の言葉に繋いだ。 同調ではなさそうな反復は、あまり抑揚がない。 『食いつく個所がちょっと違うんじゃねえか』と、俺はまたも心の中で密かに呟く。 前を向いていても微かに見える相手の横顔は少し鼻が赤い。 それでも、硬化な無表情は全く、どこを取っても変わっていない。 光の明滅さえ起こらない俺の部屋。まったく狂いのない空気は、どこまでいっても平温だった。 「・・・・・・・」 それからは沈黙ばかりが続いた。しいんと静まりかえる、いびつな正方形の箱。 俺は喋るタイミングを呆気なく見失った。 上手くいったと思った、暗闇の話は満足に続かないまま、あえなく沈没してしまった。 お互い窓を見つめたまま、体育座りを継続していく。 その行為と状況は普遍的な異常に見えて、なんだか可笑しかった。 吹く風と、カーテンと、半分ぐずった男と、半分笑いかけた男。 縦に並ぶそれ等は、曖昧な線で上手く調和している。 こういう風に相手と、ただ二人で黙っているのも結構、悪くはない。なんとなく思う。 「・・・・・・・なあ」 そして、くぐもった声が聞こえた。 沈んだままの、それでも何かに納得したような相手の声。 話しかける口調は、間違いなく俺に向けられたものだった。 「どーかしたか」 俺は返事を返す。 まともに掬い上げる気はないと言うような、間の抜けた無表情の声で。 脳内のビジョンにうっすらと、相手の泣き顔が浮かぶ。 「・・・目、瞑ったら安心した」 相手は、少しだけ言葉を詰めて言った。 至極常温の声は、さっき俺が出したものと、殆ど遜色なかった。 セリフ自体も、その温度も、指をひとつ折ったくらい、ただそれだけの違いだった。 相手の為に投げ打った言葉が、いつの間にか俺へと猛スピードで投げ込まれている。 その状況で、面食らう必要はない俺はまともに面食らった。 沈黙の最中、ずっと相手は文句のささくれ立った心で埋め尽くされてると俺は思っていた。 暗々しい卑屈な、他虐の感情にうごめいていると思っていた。 それが、まさか、俺が口走っていたことを本当に実践しているとは。 不意打ちだ。サプライズだ。ねずみ花火だ。・・・なんとも悔しい。 曖昧な嬉しさと驚きは、水中で手足を動かすように、鈍く俺の中を巡る。 「・・・腹の中だ」 かろうじて出てきた言葉は三度目の反復。同時に、きつく目を瞑る。 そしてイメージする腹の中。羊水の中。それは母親の暖かさ。 俺がたった今、僅かに、忙しく得ている安堵感。 相手も暗闇の内側で、それを感じたのだろうか。 「・・・・・うるさい」 答えは、俺の部屋へ乗り込んだ第二歩目あたりの言葉そのものだった。 跳ね除けた、つっけんどんの文句。天邪鬼の同調。 濁りつつもささやかな安心で形成された曇りのない声は、プラスの感情を確かに証明している。 あまりにもこの男に似合う返答。思わず、さっきの気分も吹っ飛ぶ。 馬鹿みたいな同等の感情で、動いている俺たちがいる。 「そうか」 それも不満がられそうな同調へと、俺は頷く。 唇から漏れる三文字は、閉塞から解放されるようにぬるりと抜け出た。 ゆゆしい感情の流転。日常だけの俺の部屋。 祝福の音はどこからも聞こえないが、無駄に気持ちは澄み渡る。 「・・・・・・そうだよ」 風が吹く。カーテンがなびく。相手は未だに鼻が赤くて、俺は流れる川みたいにゆるやかだ。 ぎこちなく笑った、相手の顔を俺はかすめた目の切れ端で見た。 そして、俺は何となく理解した。 こいつがどん底になったとき、俺の部屋に、俺を巻き込んで来訪する理由。 頭の片隅で納得する。過程を見てよく分かった。 「そうだな」 仮想の母親の中に居た俺たち、暗闇に抱かれていた俺たち。 そうやって、一瞬だけ一つに融合した俺たちは、おかしいこともないのに、賑やかしく笑っていた。 目を開いた窓の先の平穏、閉じた瞼の先の平穏。 重なったふたつと、それらを内包した小さな部屋。 ベットに置かれたままの携帯は、暴れもしないで鎮座する。 数十分前の出来事は、もう笑い話になっていた。 「ま、気にすんな」 さりげなく言う。さりげなく恩を着せる。平行の上に成り立った、シーソーのような関係。 目を瞑り、目を開く。そうすれば、多分いつでもそこで笑っている。 俺はベットにもたれ掛かって伸びをする。 吸い込んだ空気は、さっきと何も変わらなまま、心地いい。 カーテンは笑う。俺たちも笑う。多分こんな馴れ合いは、この先ずっと飽きるまで続く。 そして、俺は目を瞑る。『五秒間』、相手に倣うように。 「・・・あ」 そして、相手は気付く。その声を聞いて、俺は自分の考えが間違いでないことを実感する。 目を閉じて、目を開けて、そうすれば何も変わらない景色が見えてくる。 屈託ない窓越しの空。二足分の靴、空気より軽い笑い声。 横には目を閉じて数を数える男がいる。 目を閉じて、目を開けて、そうした後、俺を見て文句を呟く男だ。 俺たちは何をするでもなく、遅い動作でカウントをする。 一秒、二秒、三秒、四秒、五秒。そこから見える筈の景色は、もうすぐだ。 |