「なーに?その紙切れ」 ひとつの部屋の中、彼女はバナナの皮をとても綺麗にむきながら、女へ声をかけた。 ピンク色の血色のいい唇からは白い歯がこぼれていて、化粧は薄い。 机の上には小さい文字で形成された書類が積みかさなって、分厚い。 「言わなくたって分かってるでしょー」 ぶく、と頬をふくらませて女はその紙切れを自嘲っぽく揺り回した。 キャメルのセーター。牡丹色のリボン。短いスカート。 ソファーに乗せた濃い化粧の顔は、美人とも醜女ともつかないあいまいなパーツが散らばっている。 「はは、赤点?」 なお、彼女は歯を見せつづける。 ちらちらと見える難解な文章、赤い線と黒い線。 20の数字には小さく、丁寧な二重線が引かれている。 「うるさいっ、静かに食べろっ」 悪態をつきながら、女は近くにあったクッションをこれ見よがしに彼女の方へ投げた。 小さい放物線を描いて、クッションは赤い残像と共にぱたりと地面へ落ちる。 「そんなの、紙ひこうきにしてどっかから飛ばせばいいのよ」 バナナの皮を周到に4分割し終わると、彼女はうれしそうにそれへ噛みついた。 空ぶった笑い声をひとつふたつ上げて横目にクッションを追い、そして女を追う。 芳醇な香りが静かに部屋へ広がる。 赤と黄は見事な対称を見せて、しかし、とてもうまくそこへ馴染んでいる。 「・・・飛ばしたってこれが帳消しになるわけじゃないし」 クッションを放り投げたその手をその格好のまま、女は彼女のうれしそうな顔に悲しげなため息をついた。 もう片方の手についた紙切れは、真っ白な姿を未だに称えている。 冗談めかしい態度をものともせず、数字は正確に紙へ腰を据えていた。 「へぇ、そういうの気にする方なんて思わなかった」 彼女は目を丸くする。 半分ほど減ったバナナをまた剥きながら声をすこし高くする。 女の手の中で不規則に揺れる紙切れをまじと見つめる。 拗ねた唇を尖らせた女は、彼女のほうを見もせずに「フン」と鼻を鳴らせた。 「あたしが何に気を止めようと勝手でしょっ」 こげ茶の髪を揺らせて、恨めしい目は空を舞っている。 彼女は、まだ女の顔やしぐさを眺めていた。 慈しみと愛しさをほんの少しだけ混ぜたような顔つきで、だ。 「なーによ、可愛くない返事してさ」 しかし、出てくる言葉は真逆とはいかないまでのたやすい反抗だ。 ゆっくりと甘味を舌で味わって、彼女はバナナと女とで交互しながら口元だけを緩めている。 時計が確実に秒針で時を刻み、カーテンは薄い緑を放つ。 閉じかけのカバンは乱雑にすみに転がって、下着がはみ出ている。 女はまた、不満足げに息をもらした。 つまらなさを憶える女自身、それでも彼女から逃げない女自身。 「可愛くないのは、最初からだよ」 そんな台詞を巧く扱いながら、コンプレックスさえ女は垣間見せる。 20の赤がちらりと女の目をすり抜けて、それに小さく追い討ちをかけた。 「そういう事、言わないの」 彼女はひとつ叱責し、慣れたくはない宥めも織り交ぜる。 女の言葉はいつでも自分の一部を切って煮詰めて出しているようにも彼女には感じられた。 女は昔から、今でさえ似たような自虐で意見を差し出す。 幼さばかりを武器にした、半ば諸刃のはかない牙。 どうしても彼女はそれを好きにはなれなかった。 「・・・・ふん」 美しいフォルムで、女はやけのように紙切れを躊躇なくフローリングに投げ捨てる。 そしてそのまま、クッションと同じようにどぎつく赤いソファーに背を預けた。 女の目から見えるのは少しヤ二で汚れた天井だ。 彼女が煙草をひどい態度で嫌っているのを女は知っていた。 こみ上げるのは嫉妬だろうか。 いや、違う。 こみ上げるのは、すっかり乾いた悲しみだ。 特別でないのはどこでだろうと同じだ、という確かな女の思いだ。 「ごちそうさまでした」 ひらりと、紙は真白いほうを上にして床とキスをしている。 彼女はきれいにバナナを平らげた。 椅子で浮かぶ裸足をぶらぶらと弄んで、実のない皮を揺らす。 ふんふんと鼻歌を混じらせてしばらく皮と戯れたあと、彼女は立ち上がった。 ぺたぺたとした音をつれて銀の爪と土踏まずが床を這う。 彼女が目的とする生ごみ処理機へ向かう足は正確で無駄がなかった。 鼻歌を続けたまま、キッチンへ。 周到に発見した処理機の蓋をあけ、皮を見事に放り込む。 下には層になった土たちが布団の代わりになりバナナの皮をあやして寝かす。 少し粘ついた指先を彼女は猫のように舐めて、それを満足げに見た。 「ねーえ、千代」 首から調理場を出て、彼女はもと来た短い道を帰ってくる。 そして指を舐めたまま、まったく探るでも疑るでもない口調で声を伸ばす。 彼女は、ゆっくりと女の横たわるソファーへ進んだ。 「・・・・」 女は返事に答えない。 頭の中は未だ天井のことや紙切れのこと、その他渦巻くことで隙間がなかったからだろうか。 上を見つめたまま、声をかけられたことも知らないように体を投げ出している。 「千代は若いから、大丈夫よ」 うち遣られた紙切れを拾い上げ、やさしい声で彼女は続けた。 熱を測るために額に手をつける母のように甘く細くゆるやかに、 また彼女も、返事を受けないことを存じないように、 紙切れ・・・女の学校の期末テストを、真四角にきれいに畳み始めながら。 「・・・なにが、大丈夫なの」 ソファーの背、後ろから覗き込むように微笑む彼女を見据えないために、女は静かに目を伏せた。 視界は狭まり、少しづつ世界は暗がりとして消えていく。 あるのはただ、彼女の声と女自身の透明な意識だけだ。 口から出たたったそれだけの一言を噛むように女は反芻した。 それしか言えない己を口惜しいとも思った。 「いろいろよ、いろいろ。・・・まぁそれは分かるでしょ、自分でさ」 含みのある濁り混じりの波紋を広げて、彼女は笑う。 その笑いは巧くごまかしが聞くようにした風にも見えた。 女の抱えている丸ごとを消化させようとする意図のひとつも出さないために、 彼女は内の深いほうでさまざまな箇所をいじったようにも見えた。 唇が流暢な間、絶えず動く彼女の指はテストをひとつひとつのプロセスで違うものへと変えていく。 赤も空欄も書きなぐった名前も見えないように、周到に翼を作る。 「・・・わかるよ」 ゆっくり女は起き上がって、手で目を覆った。 しかし泣いている風はなく、ただ彼女の言葉に納得し同意したことを示しただけのような制的な仕草だった。 女の中では『いろいろ』が静かにフラッシュバックして、女を変な気持ちにさせる。 咎められるような顔、叱責と暴力、人差し指の雪崩と雨。 スカートのすその小さなほこりを払って、女はだらりとソファーにもたれた。 「大丈夫、大丈夫」 彼女は、後ろからそんな女をやさしく抱きしめる。 そして背から回したすらりとした手のひらで女の鎖骨あたりをぽんぽん、と叩いた。 母のように、いや、目の前にいる一己の人間をどうしようもなく尊く思う一人として。 「・・・青さん」 「ん?なーによ」 女はこく、と唾をのみ込んで彼女の名を呼び、多少怯えるような速度で上を向いた。 彼女はかすかに首を傾げ、芯の透った眼を投げた。 二人の目が合う。 「・・・あたし」 外を車が走り、一瞬音として部屋を排気臭くする。 狭まることも広がることもない距離へ光の速さが貫通して、すぐにどこかへゆく。 「・・・まだ、あたし、言えないけど、絶対いうから。・・・ほんと、絶対」 少しだけぼやけた残像を放ったまま、女はくちびるを弱く噛み、自分のセーターの袖を強く握った。 彼女には、触っている鎖骨の真下から速いテンポで響く音がよく感じられた。 どくんどくんと脈打つ血。それを、頬ずりするように撫でる。 「いいよ、・・・あんたが思うときに言えばさ」 「・・・・・うん」 彼女の顔越しに天井が見える、と女は思った。 ヤニくさい天井。煙草をひどく嫌いがる、彼女が生きている部屋の天井。 すっかり乾いた悲しみと、熟れきった後にじくじく溶けていくような心。 不思議な感覚だった。 可笑しいくらいの、不思議な安堵感が女の中にあった。 「さて、千代」 ぱっと女へまわした手を離し、彼女は唐突に満足げ、あるいは自慢げに口端を上げてぱちりと右目でウインクする。 「飛ばせばいいって言ったの私だし、責任はとるわよ」 少々ぽかん、としている女の手首をつかみ、半ば強引にソファから立たせる。 「ちょっと、青さん?」 「ほら、ねぇ、屋上。飛ばしにいこう」 彼女は実にきれいに空欄を隠し、20を消した。 そしてにっこり微笑んで、そうやったとても美しい紙飛行機を高くかかげた。 例えば安易かつシンプルなテストの行方。いろいろ詰め込みすぎた感もあります BACK |