「暇、だな」 対話をする。 独り言のように呟く言葉。 左右非対称の月が浮かぶ空は上も下も真黒い色に支配されている。 風にざわつく草の擦り合いだけが響く草原。 ああ、と相槌の言葉が幻聴に似て聞こえてくる。 包帯を巻いた頭に手を預け、法師は琵琶に「お前は暇も無いだろう」と笑った。 法師の持つ琵琶は意思を有し、また身体を有する。 何故だろう、と当然のような疑問を法師は持ち合わせていない。 昼は上等の楽器。 夕から夜は幽霊のような足の無い身で悠々と空を舞う。 法師にはその事実だけで充分だった。 琵琶は今もまさに法師と同じ袈裟を纏い、暗闇に浮遊している。 有機と無機の、他愛のない会話。 映える風景と形態の奇怪さを容易く跳ね除け、両者は軽々と会話を続けて行く。 「それにしてもなあ、これはどうするか」 法師は濁した声のまま、手馴れた遊具で戯れるように、ひらひらと茶封筒を顔の前で左右に揺らす。 唐突に目の前に現れた己を神と称する者。 その者から受け取った、催しの招待状。 絶対参加、と名を討った音を発表する場。 音楽を嗜む身としてこの催しに参加する事は最上の名誉と呼ばれるらしいが、 当人は渋った様子で封筒を眺め、そして低く唸る。 「何故俺が選ばれたんだろうなあ・・・どう思う、お前は」 顔を上げ、琵琶に向かい言葉を掛けた。 琵琶は他人事だ、と言わんばかりに法師が背を預けていた岩の後ろに回る。 肩を叩かれまいかと法師はやんわり身体を強張らせたが、痛みは追えども訪れない。 暗がりから夜目の効いた視界を揺らし、安堵と呆れの混じる溜息を吐く。 法師は慣れた様子で苦笑を混ぜながら言った。 「助言も無しか、冷たい奴だ」 返事らしい返事は見受けられない。 生ぬるい風に封筒が揺れる。頬に当たる感触は薄い。 行くべきか、留まるべきか。 音への難を抱えた者を、果たして参加者は受け入れてくれるのか。 視界に揺れる茶。 発作を起こしたように音を認識する器官に手を当てる。 真平らに、緩やかな曲を描く皮膚の感触。 少し進むと包帯のざらつきが手を襲う。 草の音。風の音。自身の音。 研ぎ澄まさなければ感じられない言葉。風景の彩り。 不仕付けに脳に叩き込まれる音を手探りで掴まなければいけない苦悩。 「ああ」 手を当てたまま響く、吐き出す息と似た声。 「それでも往かなければ」 言葉を開く度、内側から揺れる。 振動が伝わる度、発していると気付く。 神経で己と対話を成す過程。 法師は傾けた表情を崩すことも忘れ、長くそのやり取りを追っていた。 留まる場所などない。 しかし、還らずとも居場所と成りうる土地はある。 そう信じる。 果たしてその場所は、封筒のかざす目的地なのだろうか。 往かなければ、と本能で発していた声。 己の目指す行く末に思考は巡る。 視界も、空も、世界も黒い。 琵琶はどうしているのか、どう想うのか。 その考えにふと、法師は変化の少ない景色へ瞼を開く。 目の前には当然の如く、どっしりと草の群れが構えている。 振り向くことを億劫がり、手を離し、法師は大きく声を出す。 「なあ、どうだ。良いんだろうか、俺の場所は、ここで」 気を遠くしても掴んでいた、茶の封筒。 執着ではないのだろうが、拒否でもないのだろう。 変わらず、びちびちと生物のように蠢く封筒は自己を主張しているようにも見えた。 己を連れてゆけ、と。 「なあ、おい」 返事の催促を先程よりも強く、大きく響かせる。 いい加減に振り向こうか、そう法師が思い掛けた時、 残像を残すかという速さを見せ、琵琶は法師の正面に浮いていた。 「うわっ!なんだっ」 法師の後退りの仕草は岩によって阻まれる。 どしんと低い重みの感触が背に伝わり、驚きは表情に表れる。 「来るなら来ると言えるだろう」 注意の喚起。 法師は冷や汗に似た液体を黒い袈裟で拭う。 しかしほんの少しの注意さえ悪びれる様子を見せない琵琶は、ふわりと地面に距離を置き、 そのまま緊張のない顔でだぼついた袖を法師の前に差し出した。 「・・・・・・どうした?」 伸ばした先、法師の目線に丁度良い高さ。 疑問と同時に回答が見える。琵琶の袖の上に置かれたもの。 彼自身を奏でる、焦げ茶のバチ。 差し伸ばされた袖は、安易に先を読ませている。 「弾け、と言うのか」 ああ。 風が言葉を運んでいるように聞こえた。 「お前を」 そうだ。 確認を要するのは確信を得ているからだろう。 聞こえる言葉は、法師の予測したものと寸分も違わない。 「そうか」 堪え切れないように、小さく笑いを含めていく。 歯を見せた口元。底から思う、奏でる快感。 「悪くない」 満足げに微笑んだ法師の顔を見取ると、 琵琶は法師の手の平に吸い込まれるように楽器となり納まった。 永く、共に歩いてきた暖かみ。 それを拾い集めるように丁寧に弦に指を這わせる。 瞬間に法師の腕が真下へ降りた。 響く、一声。 挑発とも取れる潔い音色。 半ば焦らせた空白を束の間に、歓楽な音色が辺りを覆う。 機械的であり流動的であり、また人間的である両手の動き。 音、動作、集中、そして法師の纏う高貴な空気。 その全てに植物さえ酔っているようだった。 隙間なく空間に植え付けられる、創られていく符。 迷いも恐れもない、惑うことなき音。 法師が導いた答え。 狭まる間隔、早まる指先。 バチを持つ手は汗で湿っている。 刃のように、切り付けるように目線を琵琶に注ぎ、様を必死で見送る。 息を深く吸い込み、法師は強く、強く弦を掻き鳴らした。 さあ、終わる、終わる、終わるぞ。 法師と琵琶は一体の意思となり、終結の言葉を繰り返す。 終わる、終わる。 その三文字が音色と混ざり、思考を支配していく。 限界に近しい感覚。 伴なうように荒々しい音色は次第と緩やかになり、 美しい春の花を模す一節を奏でると、 乱暴にバチを地面と結合させ、法師はぐたりと首をもたげた。 「はあ、ああ、疲れた」 疲労を訴える言葉。 だが顔は充分を悠に越えるほど、達成の喜びに満ちている。 額から流れる、今度は暑い汗を拭う。 境のなくなった感情を憶え、楽器となった琵琶を胸元に携えたまま、法師は月を眺めて口にした。 「俺は、往かねばならんようだ」 眉から眼、滲んだ灯りを手で遮ぎる。 その口元はやはり、揚々と緩んで見えた。 「ああ、共に往こう」 はっきりと意思のある、憶えの遠く、近い声。 心の臓に直接叩きつける律動。 再び驚いた仕草を見せてうろたえる法師を横目に、 琵琶は何をするでもなく、ただ法師の手の中に横たわる。 「・・・・・全く、お前に付き合う俺の事も考えて欲しいもんだ」 はは、と軽く笑った法師の表情。 呆れたような物言いも、赦し合う証拠だろう。 「じゃあ明日」 明日、発とうと。伝達する。 全てを見抜いている琵琶に向けて。 法師は笠を手にし、顔に被せて目を閉じた。 柔らかい休息は今日の終わりを告げ、明日へと変化していく。 暗い闇の中、月は彼らを満たすようにゆっくりと満月へ向かっていた。 |