「どこ行くの」 背の方向から声が聞こえた。 おれが靴ひもをちょうど結び終わったところだった。 真っ暗闇の中、それでもなぜか視界はおそろしいくらいに映えている。 ズボンのきついポケットに滑り込ませる片手、汗ばんだ片手。 ゆっくりと立ち上がって、トントン、と靴のつま先を地面に擦りつける。 なぜかおれは、意図的におれ自身の存在を殺してしまおうと試みている。 「ねえ」 返事を乞う、上ずった声は聴きなれた声だ。 おれの耳の中を通りぬけるといつでもさっと安堵が広がる。 そんな、かすれていながらも少し媚びる声色は、好みが分かれるように思う。 「お前にゃ関係ないとこ」 焦りのない伸ばし方、ふざけた言葉に真面目ぶった声、ひらひら舞わせる手のひら。 そんなので通じるかどうかは分からない。 何も持っていないという手ぶらな格好なら運良く、勘違いしてくれるかもしれない。 そう考えながら笑顔を準備して、薄っぺらい玄関への視界を百八十度回転させる。 「・・・どこ」 振り返えると同時に相手が見える。 『どこ』と訴える、顔と声はまったく心もとない。 想像していたより崩れている顔と、さっきよりかすれている声。 泣きそうな表情は案外見慣れているので、動揺はしない。 何度やっても、おれだけには武器にならない。 「んな顔すんなよ」 そんな訳で貼りつけた偽の笑い顔は上手くいく。 はは、と乾いた声も倣って出てくる。 暗い部屋はしんと静まり返って、何の温度も感じさせない。 まるで空気が嫌な重さを持ったようだった。 湿るような、生暖かいような、不快さがまとわりつく。 「だから、どこ」 緩みの混じった鼻声で、相手はゆっくりとこっちに近づいてきた。 一歩ごとに、安いフローリングの軋む音が響いていく。 覚束ない足取り、下を向いたままの視線、あくまで力のない四肢たち。 それらが全て合わさったかなしい仕草で、おれの目の前で歩みを止め、おれの腕をきつく掴む。 歪んだ顔はさっきよりもはっきりと弱まっている。 それでも、おれの腕を掴む力はどこから出てるんだってくらい強かった。 「なーに泣いてんだ」 少し赤くなった目を放置して鼻だけを不器用にすする姿からは、 自分がどういう状態なのかいつも把握できない性格がよく出ていた。 からからうような軽い口調、肩透かしの笑い声、空いたほうの手でおれは相手の髪をわさわさとまさぐってやった。 くせっけの扱いにくそうな髪。そこに滲んでくおれのむなしい本心。 手のひらの感触はなぜか、ひどいくらいに優しい。 「泣いてなんかない」 うっすらとなだめたおれの言葉に反抗するように、相手はおれの目を睨んで強がった。 甘えと困惑の混じった目に、ふるえた声。相手自身がつまらないと思うような涙。 掴まれた腕や、乗せた手のひらからは、体温の暖かみが伝わってくる。 「ばか、泣いてんじゃん」 おれはそう呟いて、髪に触れる手を下に持っていった。 そして熱を測るポーズのように、それを額にくっつける。 さっきに増して強くなる温度。どうしようもない熱のように思えた。 「・・・・・・・」 流れる沈黙の空白。その間、おれは相手をじっと見た。 笑いもせず、もちろん泣きもせず、相手の顔をじっと見た。 不思議がる空気も、意味不明に立ち尽くすその行為も、全部放ったままにした。 見慣れた顔が目の前にある。 そんな事実だけが、おれの中で無様に反響する。 「・・・やっぱ泣いてる」 手探りの反復。 別にどうこう、意味を模して何かを考えていたわけじゃない。 ただ、薄い手のひら全体で、おれの感情を淀みなしに流し込んでしまいたかった。 おれのむなしい本心。叶いやしない本心。ぶちまけてしまいたい本心。 でもそれはあざとい仕草で祈ったって、一生のうちの一度にしたって、『伝わるはずはない』。 百も承知の事実、そんなのは確認する意味もない。 相手が今更おれを丸ごと全部知ったって、どうにもなりはしない。 「・・・ねえ」 相手はそんなおれの気持ちを悟ったみたいに、ぼつりと言った。 いつものトーン、いつもの一言。さっきにさえ聞いた言葉。 紡ぐそのあとがありそうな、それでも曖昧な区切りで吐かれる言葉。 さびだらけのはさみで紙きれを不器用にびりびりと破るような、 そんな静寂の切りかたにも見えるなとおれは感じる。 「・・・なんだ?」 そして、それにおれも乗っかってみる。 慣れたワンクッションの作業と共に、聞きたくはない相手の次を待つ。 「・・・・」 次が出てこない、言うに言えない、そんな感じだった。 口を開いては閉じて、目を迷うように揺らせている。 憂いの戸惑いで時間は無駄にもてあそばれる。 おれの何かを誘い出すような、あからさま過ぎる態度だった。 「・・・行かないでよ」 そして、相手はおれの手を真正面から受け止めたまま、なんとも悲痛にねだった。 顔も声もぐしゃぐしゃで、とても見れたものじゃなかった。 腕に力が込められる。なだらかに、ゆるやかに、空気らはおれ達に這いついてまわる。 相手の感情と部屋全体とがひそかに、共鳴しているようだった。 「・・・ごめんなあ」 か細い声の、優しい声の、顔はばかみたいに笑った、一言だけのくだらない謝罪。 おれはそれしか言えなかった。 心臓のリズムが早い。相手の額から感情を離し、相手の手を振り払って、ノブを回す。 ガチャ、と無機質な音が聞こえる。途端に、おれは現実に放り出される。 まっさらな意識の中で、おれはその現実を見た。目が眩むほど鮮やかだった。 おれは走った。自分でも恐れるくらいの速さで走った。 風景がスピードを上げておれの間を抜けていく。 息が荒げて、苦しくなる。全てを忘れたようになる。 そして風景がおれの視界を狂わすくらいに目まぐるしくなって、 おれはそれに脅えるみたいに、急激に止まった。 足がもつれて転びそうになったから、という言い訳でもよかった。 呼吸の苦しさを自覚しながら、なんともなく視線を下に落とす。 地面、コンクリの灰色、そして手と腕。いつの間にか靴ひもはほどけていた。 おれは両の手のひらをゆっくり広げて凝視した。汗でぬかるんだ両手。 うっすらと、まだ暖かさが残っている。 その暖かさは今までにおれが得た愛しさにも似ていた。 しかし、それはおれの中をなぜか呆気なく通り、浸透することもなく流れ出ていく。 残留するものはこれっぽちも、少しもなかった。 それは、おれが悲しむくらいに完璧だった。 「・・・ごめんなあ」 無機質な、まるで生き物でないような声で、おれは言った。 反復されるくだらなさ。疲れきった身体。ゆっくりと足を踏み進める。 一歩、二歩、三歩。朦朧と地につくだけの二本。 一番伝えたい相手には聞こえもしない謝罪は、おれの心だけに響く。 靴ひもは、ほどけてしまった。 あの部屋でおれが触れていた全てのものは、もうなくなった。 |