I







ぼくはその日、少しだけ大切な用事を蹴った。
理由はない。
言い訳もしない。
ぼくはただ、ずっと布団に入っていた。
約束の1時間前に起き、ぼうっと茶色い天井を見上げたままで、硬直していた。
今の時刻は約束から1時間と36分オーバーしている。
小さくごめん、と呟いた。
誰ともない謝罪はぼくの癖だ。
針の声が正しく部屋に響く。
耳から空気に流れていく声は、なんだか不自然に時を動かしているように感じた。
でたらめに動く時間。
一拍の間隔を置いて、そんな空想が浮かぶ。
それがもし成されれば、どんなに幸せなことだろう。
憧れがふわふわ飛んで目の前で割れる。
どこかの歌の、哀れなしゃぼん玉のようだった。
ぼくは片手で目を擦り、手探りで布団に潜ったままカーテンを引く。
眩しさと共に一瞬にして露わになるベランダの風景。
昨日、ぼくが過剰に期待していた雪は降っていなかった。
白くないコンクリートがぼくを嘲笑う。
上から見下げて、にこにこと笑う。
ぼくは小さく舌打ちをした。
唾をひどく飲み込んで、口の中を粘液まみれにした。
そして、それが一種の合図のように、ぼくは暖まったテリトリーから離脱した。
踏み込んだ足が空の菓子の袋を踏む。
足が不器用にアルミの感触を捕らえた。
クシャ、と潰れた音が針と同じようにぼくの耳に響く。
暗々しい部屋に、一匙分だけ光が漏れている。
ベットに射し込むきらきらした光。
その希望のような明るい光を、ぼくはそっとカーテンで遮って部屋を出た。

安い素材の扉を閉めて、リビングへ向う。
半そでのシャツと、薄いフリースのズボンと裸足。
布団の中の温度に甘えていたぼくの格好には、充分寒すぎる温度だった。
フローリングと階段がぼくの素足を冷たさでじわりと舐める。
身軽な二の腕に鳥肌が立つ。
両手でそれを撫でながら空ける扉。
そこから出てきたがらんどうの部屋は、ぼくを指差しで笑いながら出迎えてくれた。
オレンジのパーカーを羽織り、石油ストーブのスイッチを入れる。
赤と白とで明滅するスイッチ。
少しよろめきながら、ソファに倒れこむ。
目を閉じて耳を澄ましていると、灰がかったリビングは自身の意思を持って活動しているようだった。
湿った視線がまとわりつく。
なにも変化のない滲んだ部屋の、滲んだ光を感じる。
ぼくはうっすら目を開けて、空いていた手を少し顔にかざした。
ストーブはまだ付かない。
ちょうど、ぼくが座った位置の横に昨日図書館で借りた本が転がっていた。
ぼくはその本の表紙をそっと撫でた。
そして手にとって、ページをめくった。
一昔前に人気の出た本だった。
日常の中に漠然といた非日常があるきっかけで表立ち、主人公にじっとりと組み込まれていく話。
あらすじはどこかのTVで聞いた。
ゆっくり眼球を揺らせて文をまさぐる。
広い、まっさらな部屋にぼくの息が溶ける。
ぼくが部屋を支配すると同時に、部屋はぼくを支配していく。
本の内容はぼくをずるずると引きずり込んで、そのままにして放置する。
そして、ストーブが点火する。
爛々と灯る内部の火。
容赦なく襲う暖かさ。
そこでぼくは初めて、用事の相手に連絡を取っていないことに気がついた。
気がつかないように努めていた、と言った方が正しいのかもしれなかった。
遅い連絡を取ろうと、区切りのいいところで本を閉じようと考える。
すると、主人公がある女に嘲笑されて、呆然としているシーンに当たった。
文字の女の声は感情では言い表せないほど、とても不快だった。
絡みつくような嫌悪を孕ませた、甲高い架空の声が耳に響いた。
その架空の不快に目を細めて本を閉じる。
閉じた本の表紙は、女と同じようにぼくを笑っていた。
今度は正真正銘、絵に描いたままの嘲笑だった。
ぼくは二度目だ、と思いながら舌打ちをした。
あの景色と同じように、見下げた視線でじわじわと本を傷付けた。
ソファから降りて、直接ストーブの灯をあびる。
数秒、身体機能を停止させて天井を睨む。
前後に揺れて、息を吐く。
灰が少しだけ明るさを帯びて笑った気がした。
時計の針が4時ちょうどを指して叫ぶ。
ぼくは重い腰を上げた。
そして、目線でずたずたになった本の途中にしおりを挟んで、階段を昇った。

階段の手すりに指をつたって、鉛の身体をのし上げる。
頭の中では謝罪の文章が浮ついて沈んでいた。
当り障りのない単純な謝罪。
小さくごめん、と呟いた。
歯の隙間から漏れた息。
それを撫でた唇を短い舌で舐めた。
部屋の扉を押し開けて、カーテンを勢いよく開ける。
ぼくの目を颯爽と潰すように明るさとほこりが舞った。
ストーブが忽然と寒さに耐えている、ぼくそのものの、馬鹿の具現のような部屋。
現代社会から置いていかれた周囲。
汚いその場をひとしきり見渡し、ぼくは全てが当然のふりをして、パソコンに命を注いだ。
アイボリーに光る液晶、慣れた音に慣れた画面。
下らないファイルが置かれているデスクトップ。
メールのアイコンに矢印を重ねる。
どんどんと溢れる広告メール。
相手のメールは来ていなかった。
キーボードに手を這わす。
のろのろと、厚かましい文章のメールを相手に送る。
指先が寒さで震えて上手く文字が打てない。
左手を息で暖める。
服の隙間から冷たい空気が入りこむ。
背骨を曲げて文を打つ。
寝坊をした、
今日は無理だ、
本当に申し訳ない、
埋め合わせは必ず・・・・
ありあわせの言葉が浮かんでは文字で消費される。
震える指さきをなおも息で暖める。
眩しさで意識がうとうとと白む。
吐かれる息も儚い白さを持って空気に混じる。
ぼくは必死で文章をまとめ、それをかじかむ手で送信した。
ぼくのパソコン、相手の携帯電話。
送信媒体の違う、互いのメールはすれ違う。
いつ届くかも分からない相手のメール。
ここで、それを待てるほどぼくは強くなかった。
暖かいリビングに戻るため、ぼくは大げさに音を立てて階段を降りる。
まるで、階段は淫乱な女が喘いでいるようにがたがた言った。
片手で片耳だけ音を遮断する。
理性のぼくと本能のぼくとが千切れたようだった。
頭の中で描かれる、ただ、よがっている女。
そんな妄想から逃げるように扉を開く。
リビングはオアシスの温度でぼくを暖かく迎えてくれた。
転がるように、ストーブの前へ行く。
手と足とを強く熱い風に向けてこすった。
寒さと女の妄想。
それは幾分かの時間で解決された。
ストーブに目をやり、赤く光るスイッチに目を這わす。
女は消えた。
寒さも和らいだ。
しかし、変わらない暖かさは毅然としてここに在留していた。
そのことにぼくは異常に腹が立った。
ぼくがしおりを挟んだ本が転がっている。
苛立ちが当てつけへ変わる。
しおりを取って、乱暴に内容の続きをむさぼった。
主人公は言い訳もせずに、じっとしながら、強く足掻いている。
ぼくとはかけ離れた主人公。
そんな彼を見てまた怒りが増長された。
それでも、そんな彼は全てに置いてとても魅力的で、
ぼくは彼とぼくとを重ねて、さっきとは違う妄想に、自主的に耽った。
文字と混同されていくぼく自身。
甘い感覚の中枢で意識が一枚づつ剥がされる。
その間に時間はスピードを上げて進み、ぼくを飲み込んで溶かしていく。
空白に埋められる自己の虚像。
憧れで括られていたでたらめが成されたような気がした。
進んで、戻って、繰り返す。
そんな下らない流れを、たぶんぼくは知らずに噛み砕いて飲み込んでいる。
安いビタミンのサプリメントのように。
ぼくはぼやけた視線を持って時計に目を向けた。
下に降りてから10分を過ぎた針。
そ知らぬ顔で畏まったふりをしていた。
三度目の舌打ち。
しおりを挟んで、本を閉じて上へ。
パソコンを覗き込むと願っていたメールが来ていた。
こちらの感情をひとつも汲み取っていない有難いメール。
小さくごめん、と呟いて折り返す。
7分遅れの返事。
この流れだとゆるやかに他愛ない日常の報告が続くのだろう。
小さい溜息をして、ぼくはそのやり取りの空想を追った。
こんな何も変化のない生活。
それを報告してどうなるのだろうか、何になるのだろうか。
何度目かの苛立ちに身体が温かさを訴えた。
下に降りる。
暖かいリビング。
本の内容の続きを求めるぼくと、メールの返事を待っているぼく。
相反しあうような欲求をもったぼくは時計を見た。
4時14分。

そして、それからぼくはCDを無限リピートするかのように、なだらかに繰り返される規則的な行為をじっと行った。
階段を昇る。
相手のメールを確かめて返事を返す。
少しだけ返事を待つ。
暫くして階段を降りる。
暖かい部屋で本の続きを読み進める。
五分経つ。
また上に行って返事を来ていないか確かめる。
返事が来ていたらメールを返して、来ていなかったら少し待つ。
そしてどちらにしてもまた下に行って本を読む。
それを五分ごとに行う。
飽きを忘れるほど意味を持たない、滑稽な行動。
無駄の連続。
いつだってそうだった。
四度目の往復に階段を降りる。
冷え切った裸足の肌でふと、ただ、木の暖かい感触を感じた。
遠くから、あつらえたように石油屋のオルゴール音が聞こえてきた。
ぼくはその時、異常に悲しく、むなしくなった。
雪さえ降っていればこんな気持ちにはならなかったのだろうと思った。
カーテンを開けた自分を恨んだ。
小さくごめん、と呟いた。
日常は決して残酷なんかじゃない。
ただ、いつも無関心なだけだ。
だからぼくはいつでも、その無関心さに酔うのだ。
酔って、甘えて、そこから歩まなかった隙間に呆然とする。
残りの段を静かに降りた。喘ぎ声は聞こえなかった。
温もりだけの空間に戻る。
読みかけの本と中途半端なクッション。
その定位置に座って、ぼくは顔を両手で覆う。
二度、声を荒げて肩で呼吸をした。
「ごめん」

そして、ぼくは泣いた。