1/ 例えば君はたまに優しく笑っていたりもしたけど、 僕にはなにも関係ない、横目ですら追わないシーンのひとつでしかなかった。 例えば君は虚ろげに嗚咽を吐いていたりもしたけど、 僕は僕の友人たちとのびのび下らないことで楽しんでいた。 君は、僕に助けを求めていたのだろうか? 僕は失礼ながら君を景色の一部のように思っていたから、 今でも疑問がこんこんと湧き出ている。『何故僕だったのだろう?』、と。 真綿にしきつめられた長方形の向こうで、君は僕に些細なものを残した。 薄い暗がりから抜け出せなかった君。ヘドロの中でもがき疲れた君。 今、涙が少しも出ないのは別に嬉しいわけでもない。 僕は、君が感じることのなかった暖かい日を浴びて、 君が残したものを片隅から覗いている。『何故君はこれを委ねたのだろう?』 赤い風船が飛び立つみたく、青い空にひこうき雲のような醒めた白が天へ昇っていく。 「君はもう居ないのか」 まるで当たり前だった日常は、こうして地道に崩れていく。 僕が握り締めた手のひらは、僕の感情を無視して静かに汗ばんでいく。 秋が終わる。全てが枯れる。風が吹いて、赤い葉が舞った。 2/ 「生きるために」 「生きるために」 ぼくらはそう言い合って、目を閉じて、背を委ねた。 広がる荒野に素晴らしいと言えるものはひとつもなく、 流れる風が時たま渦になって、いくつかのものを巻き上げていた。 ぼくらはまさしく『生きるために』、背を預け合い、体温を弄り合い、視覚を重ね合った。 満月が欠けていく様を見送り、太陽に滲む大地を受けとめた。 鉄の重みを腰に携えて、汗を流してキスをした。 「生きるために」 それは本当に幸福になる呪文や、フリーパスのチケットのように思えた。 素晴らしいものがひとつもないこの場所で、その言葉だけが圧倒的な光を放っていた。 ぼくらはどうしようもなくがむしゃらに愛し合った。 鉛の熱が色を帯びるまで、皇かなこの世をどこまでも尊び慈しんだ。 ぼくらはいつか、あくまでも愚かだったことを思い知るのだろうか。 簡単に崩れてしまうものこそ、素晴らしい煌きを放つということを思い知るのだろうか。 「生きるために」 ぼくは、生きるために全ての物事を成した。 そして、これからもぼくは生きるために進んでいくのだ。 3/ 君の眼の中には常に、天上と地獄とが混在しているように思う。 そんな思いは僕の奥底で、完璧な確信として落ちている。 君はよく笑い、よく怒り、よく泣く豊かな人間だ。 君の感情の流転はとても華々しく、そして愛しい。 それでも、時たま、誰かの四肢をいっぺんにひきちぎって、 形がなくなるまでの塊に叩き潰してしまうんじゃないかというくらいの、 恐ろしい激しさと冷酷さが君の中を駆け巡っていくのを感じて、 僕は言い表せないほどの恐怖以外、なくなってしまう。 まるで、君の中のそんな部分が凄まじいスピードで君を餌にして育ち、 そのまま君を食い破って汚い何かが飛び出してくると、 僕は本気で、本能で感じてしまうくらいだ。 そうかと思えば君は、まるで聖人か天使かという微笑みと言葉で、 破り捨てた四肢をまた元に戻すような優しさをゆっくりと振りまき、 いくつかの誰かから多大なる信頼と尊敬と憧れを一心に受けたりもしている。 君の眼の中と頭の中は、一体どんな想いでかき混ざっているのだろう。 知人を八つ裂きにした後で、他人の死を悲しむような君は、どんな感情で生きているのだろう。 君の中の天上。君の中の地獄。傾倒を受け続けた一人の人間。 僕は今でも分からない。君の隣に常に居て、君の隣で頷き、同調し、従っていても。 君はどうして、そんな不可解な生きものになってしまったのか。 「本当の善いこと」、と君は言う。それは君だけが発することの出来る魔法の言葉だ。 何百万の人間を一瞬にして幸福じみた感情へ導いてしまう、魔法の言葉。 本当の善いこと。本当の幸福。本当の、愛しさと愛情。 それを君が知ることは、きっとこれから先、適わないのかもしれない。 4/ 電話のあとで、目を伏せた。 下にあるものは脱ぎ捨てたシャツと、くしゃくしゃのカバンだ。 他には別に、言うほど面白いものもない。頭にあるのは、中途半端な苛つきだけで、 オレンジに輝く素晴らしさなんてかけらもない。くだらない。 電話の向こうの、ぼやけた声はいつまでも内側でわんわんと唸って、色々な器官をさいなむ。 眉をしかめて、ぼくは自嘲気味に笑った。掠れた高笑いが、小さな部屋にこだまする。 うっとうしい前髪が揺れて、視界が白と黒で、ブラインドのように反転する。 もたげたままの受話器が黒に赤を混ぜて光り、無神経にまだツーツーと音を響かせる。 『明日、』と伝えたあの人の、威圧的な言葉が染みていく。 支配された意識が、ぐらんぐらん揺さぶられて、虫を噛んだような味が唾液で広がる。 後悔も罪悪もない真黒い海の中に、ただ放り出されたようだ。 真っ青にして真っ赤な感情と、冷えきって麻痺した痛み。 受話器を乱暴に置いて、シャツを掴み、無作為に投げる。 白い布が空を舞って、気持ち悪い形になってすぐ地面へこぼれる。 下を向いたままの目は暗闇の中で確かに慣れを憶え、 部屋の中の輪郭をじっとりと露わにしていた。『まるでぼくじゃないか』。 ぼくは一片でそう思いながら、シャツをとってハンガーにかけた。 生臭い臭いが広がって、その臭いにぼくは実に単純な吐き気を覚える。 この手のひらは、触るものすべてを汚しているのだ。 白いものを、黒いものを、肌色のものを、透明なものを。 ぼくは舌先で指を舐め、確実な嘔吐を促すようにその味を口内でころがせた。 荒れた唇は、きっといつものように赤く染まっているに違いない。 うっすらとそんな自分自身を浮かべながら、ぼくは重い体を引きずって外へ出た。 5/ 「またまた現る!」 そうでかでかと真っ赤に書かれた、そんな新聞を見たのは確かに今日だ。 学校の掲示板に、人が沢山集まっていたから、たしかに今日だ。 何が『またまた現る』なのか、一番重要な部分は分からなかった。 昇降口で、なんともなしに欠伸をした。置き傘をしたままで、上履きを脱いだ。 帰りがけに、駅前で試供品の飴をもらった。その味は不可思議で、 今までに味わったことはないものだった。どんな商品なのか気になって、 包み紙を探したけれどもう捨てたあとで、味以上のことはわからなかった。 切符を手にして、そのまま電車に揺られて、吊り広告を見ると、 欲しい漫画の発売日が明日だった。豪華版を狙っているから、明日買いに行こう。 そう思いながら、家に帰るとすぐにご飯で(麻婆豆腐だった)、そのあとは雑誌を読んで、 携帯にメールが来て、漫画の話になった。好きな漫画の発売日を尋ねられたが、 喉まで出かかった記憶がぎりぎりで消えて、わからなかった。 そのあと、少しだけむしゃくしゃしながら宿題に手をつけたけれど、 問題の最後の方がわからなくて、結局そのままにしてしまった。 そういえば、好きな人のことを寝る前にうつらうつら考えた。 あの人の考えていることは、まったくどうもわからない。賢い人はつかめない。 そんなことを思いながら、ゆっくりと寝てしまった。 夢の中ではわけもわからずジャングルで恐竜に追い掛け回され、 ついでに東大並みに難しいテストをつきつけられて、時間まで何もわからないまま終わった。 朝日が差して、目覚ましがなる前に珍しく目が覚めた。 伸びをして、カーテンを開けて、そして昨日は何も分からない日だったなぁと、 ぼうっとした頭で、なんともなしに欠伸をしたのだ。 6/ 進むべくは、この儚いまでも白く、そして鈍重に粘ついたヘドロの暗闇だ。 影に背を寄せて男はごくりと唾を飲み込んで呼吸を置いた。 首には死を食い物とするような、生暖かいものが絡み付いている。 手探りの闇は、どうしようもないタールのようにも最高級の羽毛のようにも感じた。 進むそぶりと、立ち向かうそぶりと、戸惑うそぶりを男は順繰りに見せつづける。 それは本当に惑っているのではなく、意図的に狡猾に行なう行為にも感じた。 どこかに預けた背。それは影が幾分で培った結晶体なのかもしれないと、男は思う。 てらてらと美しく光ることを知らない銃を伸びる限りの腕でもって上にやり、 丁寧に引き金に人差し指を当て、下唇を誘うように淫猥に舐める。 嘘のように唾液が甘い。含んだ舌は上下の歯を這いながら、ざらりとした感触だけを残す。 見せろ、と念じながら、思考をかき混ぜる役割の者を男は待つ。 自分でない誰か、己でない脳、或いは恐ろしく醜い双頭の獣。 汗を流し鳥肌を立たせ、しかしにやついた笑いを漂わせて唾を飲む。 果てに飛び込む、その光速は得る価値もないものだと自嘲する。 しかし撃つのだ。男は高笑った。眼はきつく凝らしたままで、一言いった。 「俺だ」 7/ お前の手は、骨ばっているに違いないと僕は感じた。 かすかに首をもたげても肉の感触はまるでない。 背から肩にかけて上から圧しかかってくる重さは例えようもなく不可思議だ。 僕はゆっくりと肺から湿った空気を掻きとった。 お前は僕が逃げることを恐れているんだろう、少しづつ掴む力を強くする。 ギチギチと躊躇なく締めあげてゆく指先はめっぽう細い。 その爪先にはこびりついた鈍痛色も見えて、お前が加減を知らないことを理解した。 ・・・・『そうやって寂しさから殺め続けたのか』。 逆撫でじみた事実は心の中だけでうごめいて毟って吼える。 毛羽立つ感情と、それでも動こうとしない僕の体とは矛盾していた。 このような平凡な場所でこのような異質な触れ合いは決して似合うことがない。 目の前には黒で輪を飾った花がたしかに多数存在しているが、 お前はこれに祝われているわけではないと直感的に思う。 動かない僕の体を支え込み、確かめるように緩くなり硬くなりを続けるお前。 視界を黒い服で包んだ人々が出入りし、こちらを訝しそうに見る。 すると柳を背に幾分もじっとしていた僕の頭をお前はゆっくりと撫ぜ始めた。 まるで壊れそうなものにそっと触れるようなやさしさとはかなさ。 それに気づいた時、色さえ分からないお前の手はきっと淋しいかたちをしているのだろうと僕は思った。 |