Phone




友人が行方不明になった。
昼、ファミレスで一緒に喋ってハンバーグを食べて別れてその夜に、友人は居なくなった。
元々電化製品以外すっからかんだった家が何もない箱になり、携帯はつながらず、メモも手紙もそこにはなかった。
いつになく穏やかでまともだった言動を思い返す。
ファミレスではいつも安い品しか頼まないのに今日は数種類頼んでいたことを思い返す。
今は真夜中の三時半ぐらいだろうか。
電気もつけずに仰向けになっているので視界はすっかり夜という色に慣れてしまった。
この、友人の部屋へ来てもう何時間ぐらい経っただろう。
つまらない仕事を片付けるつもりでここへ訪れてから、永遠のようにこうやっている。
下らない胸騒ぎも怠慢に目覚めはじめ、頭の中をめぐっているのは両方の皿に軽い重りの乗っている天秤だけだ。
何もない箱の中、友人の呼吸を感じさせるものはなにひとつとして存在しない。
左手に持つ携帯を開き、発信履歴の一番うえの番号を無気力まじりに押す。
すべて同じ番号で埋まった画面。携帯を耳にあてる。すこしの検索音から、また同じメッセージが女の声で繰り返される。
『この電話は電波の通じない場所にいるか、電源をお切りになっています。もう一度おかけ直しください』。
抑揚のない女の声はロボットのようでもあった。けれど、それを憎む余力も残っていない。
メッセージを二回ほど聞いて、いつかと同じような自堕落さで通話を切る。
明るい液晶のライトが目を潰して、そして消えて目をありのままの素顔に組成させる。
これ以外の行動をする気がおきない、そんな自分を持て余す思考。
何十分かごとに携帯で電話をかけ、繋がらず、放心のまま寝そべり、また電話をかける。
それだけが、なぜか押しつぶされそうな「使命」だと感じている自分はなんだろう。
次は繋がるだろう、次こそはコールが鳴るだろう、次にはあの声が明るくこちらを迎えるだろうと思いながら、
常に響く女の、あの上新粉のかたまりのような声を乾ききった絶望で聞きつづけるこの精神はなんだろう。
傷をつけられた風でもなく肉を抉られたよう風でもないこの体がやけに自由でない気がするのは・・・・。
頭の中だけで突拍子なく浮かんでは沈んでいく思考を捉えたり掴んだりすることの終始は続く。
窓一つだけの殺風景なおもちゃ箱に敷きつめられた畳はまだ青く、新しく、
ほのかに香る草たちが風のない空間を舞って一瞬だけ灰色という景色をかき消していく。
ここからでもよく空が見わたせる窓からは三分の一食べられた月が白に近い黄をして紺の夜を照らしていた。
窓の形をくっきりと現す月の光は顔にも降りそそいで、からだの組成を少しだけ遅らせる。
狂うほど悲しくはない。痛むほど辛くもない。潰れるほど苦しくもない。
けれど、身体や脳はどうしても動こうとする気力を搾り出そうとしないのだ。
この月だけを眺めて、ただ電話をかけていろと、常に命令し続けるのだ。
己にしか出来ない「使命」だと、頑なで乱暴な言葉で、まるで殴るように刻みつける。
からっぽの部屋。からっぽの心。全てが空白に満ちた空間のなかで、
まだ、信じつづけろと強要する自分自身はあまりに間抜けで醜く、ついでに滑稽だった。
ため息をついて、携帯を持ったままの左手で目だけを覆う。
曖昧な光が曖昧な暗幕に邪魔されて、月という視界が消えていく。
『べつに、いなくなったところでなにになる』。
友人という奴に、依存して生きてきた訳じゃない。毎日どころか一週間に一回のペースですら会わないときもあった。
金を貸していたわけでも、秘密を握られていたわけでも、無二の相棒というわけでもない。
たまに会って、話をして、他愛ないと笑って、時々どっちかの家に泊まるだけの普通の友人。
そんなただの友人という関係にそれほど重みを感じる意味がどこにある。
実際になにも困らない。いなくなったところでなにになる?まったく当たり前の疑問だ。
あれこれ面倒な性格だった。認めることを嫌う人間だった。欠点をあげれば喉元は嬉々とする。
じゃあ、どうしてこの身体はここにあるんだ?張り付けられた罪人のようにどうして固まったまま動かない。
弱い闇に守られた目が光をほしがる。拒むようにまぶたをきつく閉じた。
こんな所にいる意味なんてひとつもないだろう。そうだろう。
いつまでこんなことを続ける。友人が帰ってこないことを芯から理解するまでか。自分の心が元に戻るまでか?
あまたの自分が脳の中で凍りついた身体をさいなめていく。
暗闇の海で、身体だけひとつ放り出されたように孤独が回る。
不意に生きているのか、と呼びかけたくなる。大声でがむしゃらに、枯れるように。
それでも返事はないのだろう。この誰もが埋めることの出来ない空白は、
既にここに戻らないはずの主の手に託されたまま、おそらく黙り続けて死にゆくのを選んだのだ。
だから今ここで、こうしている自分はただの邪魔者でしかない。
やわらかい月。新しい畳。借りたばかりだと言っていた部屋。ファミレスの好きなメニュー。
そして凝固している己。何もかもが鬱陶しかった。遺書ぐらい残しておけと呟いた。
するするとした手つきで携帯を投げやりに放る。
どこかに携帯がぶつかる音が聞こえ、それは久々に聞く自分の息遣いと上新粉以外の音だった。
目を開ける。孤独の海からほんの数秒で浮き上がる、可笑しな感覚。
月は欠けている。変らずにやわらかい放任主義の母親のような光が照る。夏を駆ける夜は既に薄い。
諦念だけが生を支配していると思った。友人の顔は薄っぺらだったが優しかった。
苦しくはないが、泣きたくなった。腕をつたう月の光はおなじ曲名のメロディーを思い出させた。
大丈夫だと願う心、もう駄目なのだろうと納得する心、旅に出たのだと捨てる心。
どれでもいい、と信じることが出来るならそれはどんなに穏やかなことだろうか。
どうしてこんなに不用意なやり方でしかできなかった?
聞く機会さえ失った。あのハンバーグの味などとっくに忘れてしまった。
こうやって、忘れていくのだろうか。そうなりたくないが為の「使命」なのだろうか。
それを祈ってこの身体は健気に愚かにこの場所に己を縛りつけているのだろうか。
込み上げるものが何もないまま、目からは雫が伝った。
放心で得た自己反芻の涙でも構わなかった。泣けば意味が生まれる。拭うこともせずにごろりと体勢を変えて這った。
畳が湿った。鼻の奥がすこしだけ塩からい。光が影を造る。手の形が歪んで畳に刻まれている。
這うと心臓が押し付けられて苦しいが、そのままの格好でいる。
月を拒否したわけじゃない。動けた、と気付く。「使命」のために動くのだ、と気付く。
ずるずる重い身体を揺らして携帯を探すために動いた。
這って、這って、何もない空白を這う。そこに少しだけ自分という存在を塗り付けたいと願う。
凍っていた身体は扱いにくかった。けれどすぐに携帯は見つかった。まだぬくもりを残している機械。
握る。離す。再び握る。開いて、発信履歴につなぐ。自然でない光が目を潰す。
暗がりの中、長い間付き合ってきた羅列される同じ番号たちを見つめる。
・・・・決別しなければならないのか。
今度あの上新粉の女の声を聞けば、少なくともひとつの区切りが付くような気がした。
明け方が近い。
こんなに簡単に捨てていくのか。
こんなに容易く、記憶というごみ箱へ存在を葬るのか。
・・・・いや、違う。
これは、一部にするための、「儀式」だ。
忘れないと刻み付けるための「使命」だ。
息を吐いた。ゆっくりと通話ボタンを押した。携帯を耳にあてる。すこしの検索音。
空白に電子が混じる。検索音が先程より長い。プツリと音が切れた。
数秒の沈黙の後、不意に耳へコール音が飛び込む。
「!?」
瞬間的に、喉に息の冷たさが入り込んだ。驚いた、という感情に気付くまでに時間が掛かった。
無機質な音が、意識的に待ち焦がれていたその音がそ知らぬ顔で耳を貫く。
息を飲む。心臓が強く鳴る。喉を押さえ、冷たい息を宥めようとする。
長いコール音。一部にするための、刻み付けるための最後の「儀式」。
その先にあるのは、自分の諦念に押し潰されていた結末なのだろうか。
それとも、そうでないという証明のための、「使命」・・・だったのか?
 「・・・・」
そして唐突にコール音は消えた。乱雑なノイズが強い音をはなった。
なにか、どこか聞いたことのあるような夜の鳥の声が電話越しに飛び込んだ。
そのすぐ後にざわざわ何かが揺れる不穏な音が続く。電波が悪いのか時々砂嵐に通話が横取られる。
「もしもし!」
ゆれる意味深な空白とノイズに黙っていることが不安になり、大声で呼び掛ける。
暗い部屋に自分の声が反響していく。ふ抜けた声はどこか拙く弱い。
枯れた喉から発された音は咳を呼び、少し細かく奥を鳴らせた。
しかし耳から電話は離れず、そこにはただその先の音に賭けている自分がいる。
願う。具体的に何を願っているのかは形になってすらいなかったが、願っている。
もう一度繰り返そうか、そう思うと、自分でない呼吸の音が混じる。
叩かれるように口をつぐみ、静かに耳を澄ませる。一拍、そう例えてもいい孤独の後、風が吹く。
 「・・・もしもし」
声が聞こえた。掠れている声だった。
それは常に、自分を苛立ちへと変えていた声色だったが、今はただ待ち焦がれていたと言ってもよかった。
その声を聞いて気付く。この数時間の己すべてが望んでいた声だったのだと、気付く。
それは、まぎれもない友人の声だった。
「・・・・・・・生きてた」
呟く。ほとんど発作的に呟いていた。感情がこもっている自身の声が、おかしかった。
ああ、そうか。
わかった。
この言葉こそ、そうだった。
生きていてほしかったのか。
生きていて嬉しかったのか。
それが、願いだったのか。
 「・・・・すごい数だった。着信履歴」
友人はあまり感情を出していなかった。対照的だ。ざわめく音は、都会的でなく綿密で深い。
そこは友人が行きたいと日々呟いていた、果ての場所なのだと直感的に思った。
荒い息遣いはそこで友人がなにをしていたのかをまざまざとこちらに見せ付けてくるようでもある。
「たくさん、掛けた」
なぜだろう。返す単純な声は震えている。沢山掛けた。それが自分の「使命」だったからただ掛けた。
それだけのことなのに必死だった。伝えたかった。たくさん掛けたと、伝えたかった。
 「・・・・うん」
悲しげな同調が残る。溜息のような声は友人の感情というものを少しだけ顕わにさせる。
母たる月を見やり、全身全霊を友人の言葉に傾ける。
問いかけたいことは山ほどあるがうまく形にならず、喉元に痞えてばかりいる。
目に飛び込む優しい光と鋭さの相反は冷静さを呼び戻してくれるようでもある。
あるのは長い沈黙だ。どちらも惑っている。
森・・・なのだろうか。電話越しに響く荒い音に耳を傾ける。
こんなに機械的なものを通しても寂しく冷たく、孤独に感じるその音。
明けそうな空も向こうはまだ暗いのかもしれない。粘り気のないこちらの闇とは大違いなのだと思う。
お互いの暗い息遣いを聞きあいながらどのくらい経ったのか分からず、
ふと気付くと、息遣い以外の音がかすかに聞こえた。似たものを、本物の母との電話で近頃聞いたおぼえがあった。
あの時はすぐに気付くことは出来なかったが、この時はすぐに感づく。
低いが、時おり高い詰まりが混じり、小刻みで、言葉にはなっていない音。
今はどんな言葉も意味のないような気がしてならなかった。
友人は、嗚咽していた。
ここでない場、おそらくただ一人でいるだろう場所で、泣いていた。
 「・・・・め・・った」
一つづつこぼれる、ひらがな達は言葉にはなっていない。
そのはずなのに、不意に少しだけ言葉へのつながりめいたものが駆けていく。
よく聞き取れなかったと言い換えても正しい。
友人は気にも留めないようにただ声を高く低く荒げている。
「ん?」
すぐに返事を返した。理解していないという意思表示も兼ね、なるべくわかりやすい音にしようと努めた。
しばらく携帯へ強く耳を押し付けて、寸分の声も聞きのがしまいとする。
次第に強くなる嗚咽の中で、友人はそんな風になる己をどうにか宥めるように何かを叩く。胸か?
泣けば意味が生まれる。それは友人にとっても変わらないものだったのか。
 「・・・だめ、だった」
ゆっくりと切るように呟かれたその声は、自分が今そうしたような、
なるべくこちらに分かりやすく伝わるようにと努められた声に思えた。
丁寧に表現した反動が来たのか、友人はそこで強く咳き込む。湿った音がラップ音のように鳴る。
だめだった。この声が、この場に存在しているなによりの理由だ。
そこにどれほどの感情がつまっているのか分からない。
絶望、後悔、諦念、錯誤、空虚、退廃。
ただ上げるいくつかの、そのひとつでも、この身体が理解できることがあるだろうか。
友人は自分の発した言葉になにかおろか、とも言えるものを見たのか嗚咽しながらも、低く笑い声をあげている。
自身への嘲笑なのか、泣き声混じりに浮かぶ息と少しもたがわない喉笛。
ばかだろう?そう言っているようにも聞こえた。
ここまでしても、死ねなかった自分に対してのあざけり。
胸らしい場所を叩く音も強さを増した。
それもこの人間に根から染みついた、自傷という癖なのだろうか。
痛々しく、哀れだ。そう感じるより前に、なぜか強い怒りが沸く。衣魚のように浮かぶ怒り。
それは届かないという自分勝手めいた憤りだけだったかもしれない。
この感情がひとつも友人には届かないのかという、無力な憤り。
それでも生を未だに捨てる言動と自分自身をあざけることしか出来ない友人に、今までにないほど腹が立った。
「笑うな!!」
ありったけの力を使い、怒鳴る。
がむしゃらに発したその声に、嘆くように笑っていた友人の声は脅えるように唐突に止まった。
乱雑にかき混ざったあとのような沈黙も唐突に訪れる。
友人は嗚咽から溢れるしゃっくりを上げ、しかし必死にその音を抑えようとしている。
驚いているのか。それとも自傷と同じように染みついた恐怖症のように、
結局のところの他人という恐ろしさに脅えているのか。
むなしい。・・・いや、悔しい。ひとつも役に立たなかった、むなしさが悔しい。
感情が胸から徐々にせり上がってくる感覚が重く喉にかかった。
「笑うな・・・・!」
上擦る声が、絞られる喉の力で細く途切れる。
頬が熱い。気付けば泣いている。
自分でも驚くほど、先程の無感情さを忘れるほど、強くきつく泣いている。
無力だ。無力だ。無力だ。どうしてこんなに無力だ。
生きろと願うことはそんなに無駄なことか。死にたいと想うことはそんなに崇高なことか。
届かない言葉につまり、しゃくり上げ、そして咳きこむ。
携帯を持つ手が汗で湿って滑る。塩辛い涙が頬を伝い口へと落ちた。
友人はこちらの反応にただ長く言葉をつぐんでいる。
悲しく、つらく、苦しかった。あのとき、まったく表面には表れなかった、
その哀れな感情は今や大人しい視線をしてこの身体で暴れまわっている。
生きていて嬉しい、とそんな当り前のことを祝うことさえ許されなかった事のように感じた。
その友人自身のあざけりは、あざけって欲しいとでも言って欲しいように聞こえた。
『死ねなかった自分はついにしがみ付くべき対象さえ失った抜け殻』だと、
そこまで模しているように、聞こえてしまった。そんな自分も許せないと思った。
 「・・・あんたの顔、考え、・・・たら、怖く・・・なった」
「・・・え?」
だらしのない声で喚く中、友人がかすかに口を開いた。
言葉はしっかりと聞こえたが、突然自分のことを出されて混乱し、
そして話題の意味を正確に掴めずに鼻声で聞き返す。
怖くなった?
 「死、のうと思って・・・崖に立った。・・・そん時、あんたが出てきて、死ぬなって、言った・・・ような気が、した」
それでも気にせず、気にせずというよりはそんなことを考える余裕もないように友人は続ける。
徐々に、話の中身がつかめてくる。たどたどしい口調で友人は話す。
言葉言葉の一つづつにつかえる、不恰好な声、言葉、口調は始めて友人から聞くようなものだった。
逃げそうになる自分を押さえつけるような、必死に絞り出しているような口調だった。
向き合ったのか。ゆるく気付く。覚束ない意識で、途切れ続ける声を聞く。
弱く立ち止まるように、自分という存在がそこにある言葉を聴いている。
 「そのとき、すごく・・・死ぬ、のが、怖く思えた。・・・はじめて、だった。死ぬのを怖いと思うのなんて」
苦く歪んだ死の言葉がぶれる。かすかだが、確かに意思のある吐露。
生をはき捨て、死を親にさえしていた者の恐怖はどれほどのものか、とうしろを振り返る。
友人を苛めて来た「生きるという恐怖」より恐ろしいもの。
それは生を受け止めると言うことなのか。曲がり、ぶつかり、泣き叫ぶほどの。
 「そしたら、急に、全部が・・・怖くなって、それで・・・麓まで・・・走って・・・
  怖さは収まらなくて・・・・震える手で・・・携帯、電源入れて・・・・20件、って出て・・・そしたら・・・あんたから、電話が、きた」
丁度電話がかかってきたのは本当にタイミングがよかったからだ。
20件という数字に驚きながら、それだけ無意識的に必死だったのだと思う。
それでも、自分は友人を死と刻むために電話を掛けた。それだけは紛れもない事実だった。
友人の生を望みながら、しかし、友人の死を受け入れようとするために、最後の電話を掛けた。
そうだ。あの時、一度自分は友人の生を捨てたのだ、と思う。
苦く胸が濁った。怒りを催すほどその生を叫んだ自分を差し置いて、冷静だった自分が脳をわずかに荒らす。
友人を友人のまま死ぬ者として理解していた自分を、蘇らせる。
友人が自身のことを端から端までそう認識していたように。
「違う」
自分という存在への一瞬の否定が後押しをして、声が出た。
違う。
「違う。そうじゃない。・・・そうじゃない。諦めてたんだ、死んだと思った・・・それで、だから、最後に、電話を」
つぎはぎの感情は次々、台詞になる以前の状態で吐かれる。
頭はまとまらず、それでいて妙に内側は冷徹だった。
追い討ちを掛けるような言葉の数々。それに気付くたびに視界は揺れた。
すまない、としな垂れるように付け加えた。それも無意味だと知りながら。
 「・・・・うん、だからさぁ」
しかし友人はどこか全て達観をしたような口調で言った。
まるでなにからなにまで知っていると言いたげな、丸みのある声だった。
 「コールが、鳴ってるとき・・・あんたなら死ねなかったおれを、なじってくれるかなあって、思ってたんだけど・・・」
なじる。・・・そうだ。まだファミレスに居た時、自分でもそう思っていた。
死に関してだけ輝くこの人間がその場面に直面し、そしてその行動に失敗したとき、
その無様さをどれだけ笑ってやろうかと思っていた。けれど、違った。
どんな冗談より、あの時、生きていて嬉しいという感情が勝った。
あの声を聴いた瞬間、鈍器で腹を殴られたような衝撃を受けた。
そしてそこではじめて、底に溜まっていた本心という沈殿物が舞い上がったのだ。
少しだけ、友人のあげる角のない声に耳を預ける。なじる気にはなれない。
なじる、という言葉が出てきたということは、期待はされていなかったのだろう。
いつも通りの「友人」という位置で、迎えてくると思っていたのだろう。
それでも自分はあんな風にざら抜けた行動と態度を示した。
生きているのだ、と実感し、存在しているのだ、と理解することに全てを注いだ。
 「でも、違った・・・あんたは・・・こんな、おれに・・・まやかしでも・・・生きろって言ってくれた・・・・。
  死ねなかったって笑うおれを・・・わらうなって、怒鳴ってくれた・・・・。
  あんたはさ・・・やさしいよ・・・・・だから、そんなこと、言うな・・・そんな風に、泣くなよ・・・・」
それを肯定するように、友人は長く、呟き続けた。息継ぎの音がする。
他人の存在を常に排除するべきものと定義していた友人の、掠れている声。
途切れ途切れで紡がれた独白は妙にやさしさに炙られた乾きに満ちていた。
声が上手く出ない。喉は焼けるようで、月は消えかかりながら光を灯して微笑んでいる。
瞬きをすると、ごろりと重い涙が垂れた。
生きろと言われているのは自分のような気がしていた。
生かされているのかもしれない、と思った。
部屋に意識の酸素が流れる。もう、主を失った空白ではないのか。
「・・・・ありがとう」
言葉はどれもその口から出るのを拒んでいたが、かろうじてひとつだけ存在になる。
それはあまりに平凡で抑揚のないものだったが、友人は丁寧に受け取ってくれただろう相槌を打った。
その声に後押しされて、ゆっくりと息をつく。
空気がざらつく。それでいて呼吸は滑らかで、電波はいつの間にかましになっている。
塗りつけた場所を思う。こんなに不用意なやり方でしか見出せなかった何かを思う。
「使命」も「儀式」もまどろみに落ちてこごって胸の中にたまっていく。
伝えなければいけない。伝えなければいけない。ゆらりと畳の匂いが香る。
「生きてて・・・」
携帯を強く握る。月を見上げる。そこに居てくれてありがとうと感謝をかける。
今まで、見ていてくれてありがとう。付き合ってくれてありがとう。手から腕に揺れる母性が滲む。
友人の顔は薄っぺらくて、けれどどこまでも優しい。
まだこの声が確かに存在しているという尊さが浮かんで、浮かんで、はじける。
「・・・よかった」
泣くななんて言うな。泣けば、意味が生まれる。生を喜ぶ意味が生まれる。
立ち上がった瞬間にまた涙が流れた。帰ったらハンバークを食べに行こう。
最後の晩餐を祝福の宴に変えればいい。忙しく動いて靴を履く。
迎えに行こう。駅まで走ろう。そうして、出会った瞬間にはれた目を笑われればいい。
ぼろぼろの格好を笑えばいい。笑って、笑って、また泣けばいい。
ドアを開けるともう空は明るかった。月は消える。永遠に残るものはない。
だから大事だ。はき潰したスニーカーで勢いよく駆け出す。
涙を流した目が冷たさを浴びた。ありのままの素顔に組成された目がようやく動き出した、と思った。

生きてた、生きてた、生きてた、という、よろこび

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