Storm




「ね、ちょっと!」
ギィと重苦しいドアを開けて出かけようとした僕に、姉が小走りで走り寄ってきた。
相変わらず露出の高い、無防備な格好と化粧の濃い顔で近づいてくる。
「絶対ふるから、絶対、持ってって」
姉は、心底迷惑そうな顔をして手にしていた鮮やかな青緑の傘を僕に差し出す。
玄関から覗いた雲は濁った灰色をして、厚く空を覆っていた。
「・・・いいよ、止んだら帰るから」
僕は、傘をやはり迷惑だという顔をして煩わしく押しのける。
しかし、姉は腕を胸で組んで怒りっぽい顔を向けるだけで、
傘を受け取る仕草をひとつも見せない。
「駄目。あんた、大抵ずぶ濡れで帰ってくるじゃない。それでその服を洗濯するのはあたし。わかる?」
そうだ。僕は時間を持て余すのが大嫌いだ。
だから急に降る雨でも何でもお構いなしに、用事が済んだら家に真直ぐに帰る。
そして頭から爪先までぐしょりと濡れた僕を出迎えるのは、
大抵がタオルを持った姉で、面倒だ面倒だと言いながら僕を手早く拭いて風呂へ放り込むのだ。
「・・・わかった。じゃあ持ってくよ」
「うん、それでいい、それでいいの」
僕は時間を持て余すのが大嫌いだ。
けれど、この年になってもまだ姉に頭などを拭かれて世話を焼かれるというのも、
空しいし申し訳ないし恥ずかしい。僕は大人しく姉に従うことにした。
もう一度靴の紐を締め直して、微かごろごろと唸る灰雲を見上げる。
姉の言う通り、きっと雨は降るだろう。
「八時までには帰るから」
「いってらっしゃい」
左手に確りと傘を持って、重いノブを押し開ける。
背中には姉の声。
ああ見えて、姉は結構家庭的なのだ。
水商売をしているから、何かと怠惰なイメージで取られがちだけれども。
「ふぅ」
僕は上も下も灰の道路へ出た。
人気はなく、まるで廃墟と化した町のようだ。
傘をコンクリートに擦らせてガリガリ言わせ、僕は鼻歌を歌って午前を思い返す。
腹には昼に食べた炒飯が転がっている。
今日は、久々に僕が昼飯を作ったのだ。
別段不味くも美味くもない味だと姉は酷評したが、僕としてはなかなか上出来の味だった。
残り物であれだけ出来れば及第点だ。
空は相変わらず鉛を細かくして溶かしたような嫌な色で、
徒歩十分の目的地、公民館まで持つか持たないかという曖昧な境界だった。
そういえば、十二時前のニュースでは台風が来るとか不穏な事を言っていた。
肩には巨大なバッグに詰め込まれた大量の本や紙が入っているし、
このまま降り出したら夜まで止まないかも知れない。
僕は眉をしかめて、少し早足になった。
向こうに着いてしまえば、後は篭りきりだ。
早足、というか半ばダッシュになって、僕は公民館へ急いだ。

ザアッ!と大粒の雨が予想通り降ってきたのは、
僕が公民館、兼図書館に滑り込んだのとほぼ同じ時刻だった。
「はぁ、はぁ、はぁ」
公民館の入り口で、僕は肩で息をする。
重い荷物も一緒だったので、随分身体に来たようだ。
数分胸に手を当てて呼吸を整えたあと、
入り口に取り付けてある傘置き場に傘を入れ、鍵を掛けて預ける。
傘を持っていた手首に鍵ゴムを引っ掛け、僕はエレベータで三階に上がった。
ひやりとした空気が僕を出迎える。
走って火照った身体にはちょうどいい気温だ。
堂々と歩きながら、ゆっくり本を取り出してカウンターで返す。
ピ、ピ、と手際の良い司書の手つき。
アルミのラックに重ねられるフィクションを眺めながら、
僕は「どうも」と言って返却完了の薄っぺらい確認用紙を受け取った。
「さて、と・・・」
細い声で棚を回り、いくつか本を持って大人数用のテーブルに置く。
こっちも、人はまばらだ。椅子を引いて深く座る。
僕は司法浪人と言う奴で、今はフリーター同然の生活をしながら姉の所で厄介になっている。
知人の伝手で得た小さい法律事務所の雑用バイトを週に何度かやってもいるが、
殆どは図書館や家でひたすら勉強している身だ。
今年こそは受かりたいと思うが、前回が散々な結果だったので気分は重い。
自前のノートに0、3ミリのシャーペンを這わせながら、腕時計を見ると4時半。
大抵の図書館は5時までだが、ここは7時までやっているので都合がいい。
本のあらかたの内容をノートに写し、また別の本を取ってくる。
小奇麗な窓から見える空はもう真っ黒く、きついシャワーのような雨が降り注いでいた。
溜息をついて、あの異様にカラフルな傘を思い出す。
いつも僕が使う傘なんてものは大抵黒いものか透明のビニールで、
あんな賑やかしい色は召した事もない。
目立つだろうな、等と思いながらテーブルに戻る。
伸びをして欠伸をして目を擦り、時たまゴムとも遊んで僕はしばらく文字と格闘した。
時折聞こえる遠い雨の音は少々ながらも僕の気持ちを穏やかなものにし、
僕はいささか良い気分で勉学に励む事が出来た。
集中した一時間四十五分。今日の成果は、上々だ。
とんとんとノートその他をまとめて、締めに借りる本を探す。
フィクション三冊、ノンフィクション二冊、コミック一冊、文庫一冊、CD二枚。
テキパキと選び抜いた僕だったが、最後の一冊で迷った。
僕は定量いっぱいの十冊まで本を借りないと、何故だか落ち着かないのだ。
あれにしようかこれにしようかと迷ううち、いつの間にか閉館三十分前のアナウンスが流れ始め、僕は焦った。
何度もコーナーを巡り、ぐるぐると早足を進める。
その間も時間は容赦なく進みつづけ、自棄になった僕はフィクション棚からタイトルも作者も見ず適当に一冊を引き抜き、
少々乱暴に持っていた本と積み重ねながら、カウンターへ持っていた。
司書はアナウンスが流れているにも関わらずマイペースな動きで貸出の手続きを行い、
「8月15日返却です」
と柔らかい物腰で告げて貸出完了の紙切れを本の天辺に重ねた。
僕はそれを紙ごと丁寧にバッグの中に収め、司書に軽い一礼をして入口を出た。
ずしん、と肩に重みが来る。帰りもやはりエレベータだ。
ちらりと左手首のゴムを眺めて一階に降りる。
公民館入口、傘置き場の前の自動ドアの外は大雨だった。
先程までシャワーだった雨が、何やらバケツを引っ繰り返したようになっている。
あからさまに気分が落ちていくのを実感する中、僕はゴムを抜いて傘を取り出した。
くるくる回して、ばさっと開く。内側も、見事な青緑。
なるべくバッグを内側に寄せ、意を決して外へ出る。
途端、鳴り響く雷鳴!
僕は思わず高い声を上げ、目を瞑って固まった。
しかし雷鳴はそれきりまた鳴くこともなく、僕は少し怯えながらそろそろと歩き始めた。
あちらもこちらも、巨大な水溜りが道を占領している。
いよいよ人は僕以外に居ない。
台風も、どんぴしゃだ。
雨は確実に傘を打ち、僕のスニーカーは確実に水に染み始めている。
水溜りを踏まないように歩道を右往左往しながら、
これじゃあ傘もあまり関係ないな、と思った。
そしてやけくそになって選んだ本の事も思い出し、
面白ければいいとポジティブに思った。
結局、徒歩十分の帰り道を僕はずぶ濡れになって二十分で戻り、
今日非番だった姉にまたもやタオルを持ってこさせる羽目になった。
姉は愚痴愚痴と文句を付けながらも僕を拭き、やはり風呂に放り込んで、服を洗濯機に放る。
僕は雨のような熱いシャワーを浴び、水溜りのような湯船に潜った。
極楽、と呟きながら、そうしてたっぷり40分は入っていた僕が風呂から出て見たのは、
TVが盛んに台風を訴えている横で、姉が噛り付くように本を読んでいる姿だった。
「・・・何、どうしたの、珍しい」
「だって、あんたがこんなの借りてくるからさぁ」
滅多に本なんか読まない姉を僕が心底怪しい目で見ると、姉はほら、と本を手渡した。
それは僕が選んだ、例の「やけくそ本」で、白地に青のゴシック文字でこう書いてあった。
「『今夜の嵐は荒れるだろう』・・・・」
「そうよ、何それ?今日にあわせたギャグ?面白いわねぇ、あんたって」
僕がタイトルを棒読みのように発すると、思いの外甲高い声で姉が笑った。
ぴったりとしたキャミソールの上から腹を手で押さえ、くっくっくと喉を鳴らせている。
僕は上半身裸で頭にタオルを乗せたまま、半ば恐ろしいほどの偶然もあるものだと目を丸くした。
TVでは男のキャスターが神妙な面持ちで台風の被害と現状を伝えている。
『今回の台風は非常に大型で、本州を直撃しながら北上している・・・』だそうだ。
ベランダではがらがら!と音を立ててバケツが右へ左へ転がっていた。
物干し棒もギシギシと揺れている。
姉は僕の呆然と突っ立った姿を見てまだ笑っていたが、
外の様子に気づくと大変、と漏らしながらバケツや物干し棒、鉢などを回収しにかかった。
台風は今日の夜から朝方まで、この近辺に留まるらしい。
僕は未だ、魂が抜けたようにぼうとしながら思った。
ああ、本当に確実に、「今夜の嵐は荒れるのだ」と、本を抱えたまま。

大変ストレートな一発勝負。

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