Pudding




「あ、かゆ」
「なに?また食われたんだ」
そう言って、彼が無造作に腕を掻くところを無造作にのぞき込んだ。
彼の腕の中ほどが膨らんで、赤く滲んで円を描いている。蚊だ。
夏が刻々迫ってくるこの季節は、湿ったくて、だるくて、そしてすこし眠い。
「くっそ。なんで俺ばっか」
「焚いてんのにねー。変なの」
べそりと寝そべったまま、豚の形をしたプラスチックの虫除け剤を見つめた。
彼は心から面倒、といいたそうに腕を掻き続けている。
「あんま掻くと血ぃ出るよ」
「あー。もう出てっからいい」
「げえ・・・ほんとだ」
よくよく見れば、彼の見せすぎた肌からはところどころに血が噴出していた。
どこか北の活火山のようにも見える小さな血だまりは、彼の手が届くところなら何処にでもあった。
数えきれないほどの赤く汚い栄養たちは、流れださないほんの少し手前のところで彼の爪へ押し込まれる。
「止めなよ。きもちわる」
「べつに!女じゃねえんだから、傷ものになったとこでどうもしないだろ」
「うわ、言うね。男のかがみ」
「お前とは正反対」
ばりばりと、皮がはがれて肉が飛びだす。
痛くはないんだろか、と思って表情をのぞくと、なんだか苦々しい顔つきだ。
傷もの、と彼は言うけど、何十個も広がる赤まだらの斑点はどうにも格好が悪くてしかたない。
正反対と嫌味たらしくいわれたことに怒りも加勢して、ゆっくり立ち上がる。
「(・・・・かゆみ止め)」
近くに植物園があるので、このへんは虫が多い。
昔その植物園にいったとき案内の人からそういわれて、かゆみ止めをプレゼントされたことがある。
まだどこかにしまってあるはず、と思って探そうとしている。
「どしたんだー」
「腹へったー」
しつこく自分の足と腕と首とをまさぐる彼の素っ気ない質問にうそで答えて、その辺の戸棚をひっくり返す。
タイガーバーム、湿布、正露丸に龍角散。
薬と栄養剤にまじったひき出しを探すと、まるであたりまえにかゆみ止めはあった。
変に予定調和ぶった、青いフォルムがなんだかおかしい。
うそを本当にするためにプリンをもって、彼のとこへ戻る。
「食いものあった?あー、かゆ・・・」
「あったよ」
今度はこっちが素っ気なく答えて、プリンを目立たせてかゆみ止めを隠す。
ベリ、とふたをあけてスプーンで薄い黄色をすくう。
彼の目にはプリンもこっちも見えていなくて、その目線にあるのは忌々しい蚊のかゆみだけだ。
「ったく。いてーし、かゆいし」
ぶつくさいいながら、けれどその手を意固地にとめないっていうのはもう宗教の域にも近い。
アーメン教主さま、わたしは絶対にかゆさを許しはしません!なんてね。
「んー、んまいー」
黄色を口へほうり込めば、甘ったるくてさわやかで濃厚な味がひろがる。
ぐちゃぐちゃに混ぜて食べるのが好きだから、最初の一口のそのあとで、思いっきりかき回す。
きれいな卵色はすぐにカラメル・ソースに犯されて、汚濁めいたよどんできたない色になる。
まるでなんだか。と変に頭が動いたりした。別に関係はない。
「・・・・なんだ?」
彼がかゆみを意識しながらもこっちを見た。変な思考を読まれたのか。
ぎくりともせず答えてみる。
「んん。つまらんキスマークみたいだなあと」
「どれが」
「それが」
彼は予想に反したような答えを受けとってしまったように目を丸くしてまた質問した。
プラスチックのスプーンで蚊に刺されたあとを促すと、まじまじとそれを見たあとで嫌そうな顔をする。
「そういうこと言うか、お前」
「いうよ。ついでにつけてさし上げようか?」
「げえ。気色わりい」
変な思考ついでに、変な半分の冗談を言う。
彼は口からべろを出して、どうにも勘弁してくれという雰囲気。
そりゃ同じ方からそういうのを言われるのは嫌だろね、と妙に納得する。
でも、もしウン、っていわれていたら大人しくつけてあげたんだろうかって、
ぐちゃぐちゃにかき回すプリンの手を止めて、じっと彼を見た。
彼はその顔のまま、蚊のつけたキスマークに戻って血をにじませている。
それはまったく不意の感情というやつに背をおされた、ある種の拒否のように想像がふくらむ。
「やあ。冗談だからね」
「あったりまえだ」
だから、取りつくろうみたいに返事を返した。
急いで書いて送った手紙みたいな声が、裏声まじりにひっくり返る。
それをごまかすために、ちいさな欠片になって散らばったよごれたプリンを大量に流しこむ。
彼の声は、まるで丁寧な丸みをおびたふうせんのようだった。
でも顔はさっきよりすこしゆるんでいて、なんだか妙に安堵した。
「ですよねー。でもねー・・・」
けれど、やっぱりこの赤い吹きだまりを吹きだまりとして残しておくのには反対だった。
さっきまでのマイナスから安堵でちょっとの弾みをつけて、プラスへとのし上がる。
言葉をにごして、隠していたかゆみ止めをさっと取り出し、
余裕によそ見をしている彼の血みどろめがけて、メンソールの冷たい液体をべたりと塗ってしまう。
さいしょっからの計画がようやくここで果たされる。
「いっ・・・・てぇぇええぇぇ!!!!」
「かっこ悪いのには、反対」
彼のあんまりにも悲痛な声が耳をつんざく。傷にこれは最高にきついってことを分かっててやった。
彼はかゆみ止めを塗ったまさにその場所を両手でおさえて、泣きそうにわめいている。
やけに得意げなせりふを彼に回して、これも変な感情の変なたしなめってやつだろか。
血のついたかゆみ止めのスポンジをそっとなでると彼の血といっしょにメンソールがついて、
人差しする指さきは清涼なすずしさに包まれる。きもちいい。
「うおぉぉ!いてぇ!!てめええ!!」
「罪と罰でーす」
彼のおこる顔も当然だよねとこっちも納得しながら、彼のあいまいな胸倉つかみを堂々と受けて、
かゆみ止めを彼の目の前にさし出す。つけなね、のおまけつき。
「・・・もうちっとマシなやり方でなあ」
「男のかがみじゃないからさー」
彼はこのやり方にどうしようもなく呆れたのか、涙目まで浮かべながら溜息をついて胸倉つかみをやめた。
皮肉っぽいおしゃべりで、あっはっはと笑ってやる。
プリンの味がくちびるにまだ残っていて甘い。
キスマークという単語をすこしだけ意識して、すぐに脳の中からふり落とす。
まるで大人しく、彼はさし出したかゆみ止めを受け取った。
「つけりゃーいいんだろ」
「そう!その通り!」
ぱちぱち、とわざとらしい拍手で彼が有頂天になるはずはなかったけれど、
捨て身の攻撃のわりにぼこぼこ殴られなかったので、結局のところは万々歳ってところだと思う。
彼は染みる、と怒鳴りながらあちこちの痕にかゆみ止めをつけている。
時にストレートに、時に身体をねじり、あざやかな柔らかさ。
「えらいなー」
一人ごとのようで、一人ごとでないようなせりふ。
まだ底の方に余っていたプリンを掴み、くるくるスプーンで回す。
卵の王子さまがかき回される。ぐちょぐちょとした音が聞こえる。
「痛ってぇー」
「傷、残らないといいね」
左腕の奥の方で悪戦苦闘する彼を見ながら、くるぶしの刺され痕をかすめるように撫でる。
もうそこはとっくにかゆみ止めが塗られていて、少々液をつけすぎた痕から指先に、またメンソールがなびいた。
「つめたくてきもちいいね」
「全身がヒヤッとしてきもちわりいよ」
その冷たい指先のまま、プリンの全部を口に押しこめる。
A型の彼はなぜか蚊に好かれやすいことを、夏に近いこの季節にはじめて知った。
その蚊の痕はまるでキスマークみたいだってことも。
喉に丸ごとプリンの液体を通したとき、彼が手の甲をさすりながら言う。
「うまそうに食うね、おまえ」
かゆみ止めを棒にして差したさきには今空にしたプリンの容器。
「そお?」
スプーンを口にくわえて、得意げに笑う。
彼に褒められるのもうれしい。そんなことも今、はじめて知った。

自由に不意に、知りあうしあわせというものなんか

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