「めがね」 「・・・・・・はい?」 ありふれている単語だってことは、間違いなかった。 厚いプラスチックのフレームを少し押し上げた直後のなんでもない言葉。 相手が座っている場所は目線からちょうど左斜め前。 斜め前の位置は大嫌いという感情だと、どこかで聞いた気がした。 「眼鏡、何で掛けてるの?」 だらだらとした口調、その割に太い声が耳に届く。 その眼鏡に乗せた手の感触に、目線がじっとりと刺さっていく。 「そりゃ、目が悪いからに決まってるでしょう」 付け加えるように外したら見えないんですよー、と言いながらその手で乱暴に眼鏡を外してやる。 ぼやけるばかりの視界。 眼鏡を外すと部屋にあるものが全てかすんで、存在をごまかしていく。 この過程は嫌いだ。少し、気分が悪くなる。 「ああー、そっか、そうだよねぇ」 納得、といった様子のかすれた笑いが含まれた声。 表情はもちろん確認できず、手を地味に組んでいるのが辛うじて分かった。 いつもながら、自身の眼球のおぼつかなさには少々辟易する。 「そうですよ、何言ってんですか」 こっちも倣って、短い笑い声を含ませて言う。 ついでに右手に引っかかったままの眼鏡を少し慌てて顔に付けた。 常に存在するものがなくなる不自然さは、まっさらな人間にわかるとは思えない。 こんな細かいことでさえ人間は分かり合えないのかと悲しくなる。 唐突に広がる鮮明さが追ってきて、更にむなしくなった。 外して掛ける、この前後運動は常に視界に毒だと感じてしまう。 「いやあ、伊達に見えたんだよ、何か」 そうやって色々と考えを巡らせていると、相手の言い訳まがいの鈍い言葉が襲ってきた。 外した仕草にもっともらしさでも持ったのか、申し訳なさそうな笑顔が続く。 そして、そのまま顔を下げて視線を外す。 手持ち無沙汰そうな手は机を叩く。相手の見慣れた癖。 三本の指で鳴らすゆっくりとした馬の蹄のリズムは、どことなく安心する。 「そう見えます?」 相手の手に固定される自分の視界。 さっきから貼り付けたままのかすかな笑いを持って聞く。 かしげた首はいつもと同じ、半ば慣れ親しんだとも言えるような動き。 どちらにも覗えるおこがましさも、いつもと同じだ。 「見える・・・のかなあ、聞いたんだし」 自分でもわからない、とでも言っているようなニュアンス。 ごまかすようにまた笑った。 愛想笑いか、はたまた天然か、その判断はつかない。いつもながら見事。 「ま、よく言われるんで、気にしないで下さい」 こっちも天然か愛想かよく疑われる素っ気なさでごまかす。 目線を相手へ向けても、相手は自分の手を見つめているままだったが、そこは気にしない。 片手を顎元に預けて、ぼうっと視界を自由に預ける。 馬だけが、狭い部屋の中で軽やかに走っている。 「まあ・・・似合ってるし、それでいいか」 いつしか気付かないうちに訪れていた静寂。 そこから、相手は崩さないでいた砕けた顔をそのままに、情けない声を漏らす。 それは貶すことも誉めることも、主張すること自体が珍しい人間の、じつに分かりやすい言葉だった。 「似合ってる?」 しかし会話が途切れていたためか、思わず疑問系にして言葉を問い返す。 が、同時に、すぐ答えが頭の中に浮かぶ。なんとも簡単だった。 相手は笑う。そして言う。 「うん、めがね」 そう、眼鏡。 自分達があれやこれやと言っていた眼鏡。 その軽々しい答えの物言いに、呆気なさと気恥ずかしさがそれとなく襲ってくる。 相手は非常に明るいにこにこ顔をして、機嫌よさそうに馬のリズムを少し早めていた。 いつも速度で分かる、相手の感情のパラメーター。 こちらの感情に向けたものか、答えを言った満足感か、それも分からないままだ。 「誉め言葉なんて、珍しいですねえ」 溜息と混じらせるように言葉を吐き出す。 冷静にも動揺にも満ちていない感情は、なんとも言えずにぎこちない。 この、相手の予測できない行動と言動から出てくる、 不意打ちという名の表現しきれない感覚というものはいつでもどこでもやってくるのだ。 「でも、だって、似合ってるじゃない」 こっちの返答に納得がいかないのか、少し意固地に、それでも柔らかく二度目の言葉が続く。 何度も繰り返されると、やはりどうも気恥ずかしい。 視線をわざとらしく泳がせて、言葉を探す。 「・・・・・・そんな、何度も言わなくたっていいじゃないですか」 模索の甲斐もなく、結局こちらも意固地じみた台詞が出てきてしまった。 なんだか、始めの空白がおこがましい気もする。 「そうかなあ」 三度目の軽い否定は、さきほどよりも随分と優しかった。 尚も笑った顔が何となく悔しい。 それでも、さっきから勝手に感じていた気まずさは、その笑い顔で緩和されていく。 何でもない、本人に自覚もないこの人の長所も、さりげない位置からさりげなくやってくる。 それが、結構好きだったりもする、自分もいる。 「そうですよ」 そして、同調へ考えを促す返事。 これ以上色々とものを言われたら、頭が参ってしまいそうだ。 優しい雰囲気に託けて、そのままもう話は終わりに、と暗喩する。 相手はその言葉を読み取ったのか読み取らないのか、少しだけこちらを見て、ゆっくり微笑んだままで、口にした。 「そうだねえ」 目じりを下げた表情から聞こえてきた言葉は、なんとも呆気のない同意だった。 思わず掛かってきた台詞に、安堵してしまう。少し、顔が綻ぶ。 しかしその後に発した声が問題だった。 この人の空気だからこそ出た、ある意味なんの変哲もない、ただの言葉。 「でもさあ、見かけによらず、照れ屋なんだねえ」 のびのびした口調に、的を得るさりげなさ。 思わず顔がひどい表情になっていくのが、なんとなくわかる。 脱力、という感覚がぴったりとあてはまる。 首をぐったりと下にさげて、己の眼鏡に再度触れる。 昼を過ぎた午後の、飽きるほどゆったりとした時間たち。 そこから生まれた小さな論争は何故だか、到底終わりそうにはない。 いつまでもきれいな足音で走る馬も、疲れそうにない。 一つだけ、小さく溜息をつく。相手はまだ、優しく笑っている。 |