Room




「嘘つけよ!なめんな!」
部屋の中であるのは彼の怒声で響く壁のふるえだけだった。
びりびりとなびく、かすかな衝撃波。
湯気が出ているようにも感じる、彼の怒りは私の目から見ても明らかだった。
なめらかな机の上に好みで並べたポーカーの役は4カードで、
ひとつだけ異形となったジョーカーはにやりとこの場で唯一笑顔を浮かべている。
「また、そうやって黙る!気に食わねえ!」
荒々しく、彼はその机を叩いた。無遠慮に。何のためらいもなく。
一瞬机は重力を無視して足ごと浮かび上がり、ジョーカーは呆気なく地面へと落ちる。
夏の暑いこの暗い部屋で、怒鳴る彼の汗が机に滴り落ちるのを、私はすこし卑猥だと思った。
この場に何より似つかわしくない感情が私の周りを女神の如く回って、甘い息吹をかけて去る。
一口の水を喉へ流し込んだ。ぬるい。
私はまだ、沈黙を守るつもりだというこの仕草。
彼はもし、この部屋に何十人という人間を詰め込んで、
まるで全てが人権の失った研究所の水槽の中のラットのようになっても、この仕草の意図に、
何より誰より真っ先に気付くだろう。私と彼のこんなやりとりは、
何年もきりなく続いてきたある種の貧しい儀式なのだから。
「・・・・そうかよ。いっぺん死ね!」
ほら、気付くだろう。彼は私のサインにその通り真っ直ぐに気付き、
それを起爆剤として、怒りの頂点を超えた。
贋物の光線銃を振り回す子どものようにあどけなく、しかし口汚く私を罵り、
わなわなと身体を強張らせたその後で、抑えの利かなくなったのだろう右手で私が口をつけた、
ぬるい水の入ったグラスを掴み、それを私目がけてぶちまけた。
私は勿論のこと、それを往々に被り濡れ鼠になる。
頭頂部の丸みを伝って顔から喉、肩へ背と漏れる人肌の液体。
四枚のボスが赤と黒を纏って私を笑う。
服にも否応なくしみ込むその水を私は些か唐突な仕草で拭い、彼を見た。
彼はまだ、私に水を撒いた格好のままだった。
「・・・・満足か?」
問う。感情は消化されたかと。
儀式は、私が彼の全ての負の感情を飲み込むまで終わらないのだ。
彼が満足だと答えれば、その時点で私たちの儀式は終了となるが、
まるで反対のその答えを聴けば、私が獲る幾つかの他人が叫ぶ不幸と重なる出来事はまだ終わらない。
私は彼を見たまま、指にも多少染み込んだ水を舌で舐めとった。
グラスがそこに残った水滴から光を乱反射させる。
くぐもった、安いブリキオレンジの灯りに滲むぬるい液体の光。焼けていく鉄のにおい。
きっと彼は私の浮ばれない仕草を見て、私が彼へそう想ったと同じように卑猥だと感じるだろう。
私たちは挑発仕合っているのかもしれない。
決して最後まで結ぼうとしない関係をどうにか決壊させようと。
「んな訳ねえだろ。馬鹿野郎」
そうして、彼はどこか安々とした口ぶりで逆形の答えを吐き捨てた。
まだ終わらせないと告げるように。
この時だけは、彼自身の行動全てが私を支配するのだと無理無理しく誇示するように。
私は彼が笑っているのを静かに確認する。
彼は私が口を真一文字に閉じているのを見ている。
満足なのだろう。私がそうして、頑なになっているのが。
彼は右手のグラスを乳房を弄ぶ様な風にしてひねり回し、優越する。
水を被った所為なのか、酷い程暑い部屋なのに寒く感じた。
大人しく浮かび上がる鳥肌。彼への畏怖かと微かに取る己の脳を私は叱咤した。
「そうか」
しかし、叱咤しつつも私は彼を諦めた。
今はまったく実際に、彼の用意した分の距離のプールを直進で泳ぐしか私に選ぶ道はない。
勝敗という意識はないが、仮にこの状況をそう例えるなら、
彼の感情を丸ごと私が呑み込んで溶かした時こそ、私が彼を得る、ただひとつの勝利なのだ。
彼は私の言葉を聞き、それさえ予見していたように私を睨んだ。
本当に時たま、私が彼をコントロール出来ないのをひどくもどかしく思うように、
彼も今まさに、私をコントロール出来ない事に上乗せされた苛立ちを感じているのだ。
私たちの間をかけ抜けていく、同じ高さ同じ重さの感情的な立方体。
常に離れた孤島からお互いを眺め続けている私たちが唯一繋がる瞬間。
このあまりに訝しい感情が交錯するたった数秒の意識。
「そうだよ!」
彼は荒げた。繋がった瞬間に私たちはまた元のように離れる。
優しく撫で回していたグラスの指に強く力を込め、彼は私を睨んだ。
「そうやって、ずっと背反してりゃいい!」
彼の肩により力が入る。擦り切るような声も増した。
私は彼の目の滞りを見て、彼が次の瞬間何を行うかをはっきりと理解した。
破壊の衝動。行き場が定まった憤り。
彼は限りなく透明度の優れたそのグラスを、私の真後ろの壁めがけて投げつけた。
重いガラスが風を切る。
私がわずかに斜め前を通り過ぎるグラスの歪みを視界で確認した時、
既に私は斜め後ろで、そのグラス自身が己の身体を失った悲痛な叫びを聞いていた。
「・・・・お前、」
「言うな。うるさい小言は充分だ」
彼の行動に思わず私はこれまで努めていた平常心を忘れ、彼へ向けて感情の篭った言葉を発そうとしたが、
逆に鉄壁の冷静を貼りつけた彼の肩で息する格好に押し留められ、その機会を失った。
彼はそれきり黙り、一度は何か悔やむような表情を見せたが、
結局はぼやけた灯りに彩られたこの上なく暑い部屋をまるで足に分厚い鉛を取り付けたような歩みで出ていった。
取り残された私は一人、汗を滴らせながら濡れた机の染みを見ていた。
私たちの儀式のために死んでいったグラスさえ放置したまま、
ぬるい水と汗とが混じった、繋がりの残骸を見ていた。
明日からもまた繰り返されるだろう、あの挑発の情欲にはもう抗えないと感じながら。

欲情しあう

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