Sakura.







どこへでも行っちゃえば、と金切り声で怒鳴り散らしたらほんとにどっかへ行った。
最後に聞いた、思い出したくもない暴言とドアを馬鹿みたいな力で閉めた音が
まだ耳に残っていてどうにもわずらわしい。むかつく。むかつく。むかつく。
腹のずいぶん奥のほうから沸きあがってくる怒りは止まらなくて、
自分の力じゃちっとも抑えられる気がしない。
喧嘩の理由は別れるとか浮気したとかセックスしないとかそういうので、
別にこれって言って珍しいものでもなんでもない。
今さっきまで同じことやってたカップルなんて星の数ほどいると思う。
それでほんとに終わるか続くかなんてのは知らないけど、
今はどういう方法でもいいから終わって欲しいと願ってる。
「あー、だる」
死ぬほどこっちも暴言をしかも大声で言い続けたので喉がガラガラ。
冷蔵庫から麦茶出してコップにも注がずに飲んだ。
喉の砂漠みたいになった管を流れていくいのちの水。
ぷはーと息を吐いてみたら半分ぐらい減ってた。
頭を掻いてなんだかよくわからないけど散らかってた服を集めて
丸ごと洗濯機に放り込んで水をざばざばかけて洗剤をざばざばかけた。
水の入りは遅くて麦茶を入れようかとも一瞬思ったけどやめた。
その内水はあたりまえにいっぱいになったのでそれをぐるぐるぐるぐる回すスイッチを入れる。
スクリューに渦潮。
ずっと見てると目が回って気持ち悪い。
酒も入ってたので吐き気。トイレでふつうに吐いた。
口の中がべたべた。今度は真水で口を濯ぐ。
真昼に響く洗濯機の音は平和的なピースサインに聞こえる。
一般的な幸せなふたり。
夢なんて幻、なにがしあわせだ。
こなくそ、と思ってシンクを殴る。無意味な行為。無意味な恋。
過ぎたるは及ばざるが如し、ぬかに釘、のれんに腕押し。
どうしようもないことわざが新幹線ぐらいのマッハで頭を通る。
なに、こんなとこでも皮肉?
あいつの優越した、お見事な理論武装。
考えたくもないのに無理矢理出てくる不条理さ。出てくんな。死ね。
「ねむ・・・」
そういや眠い。
夜から朝までぶっ通しで喧嘩してたから眠い。
よくあんな下らない理由で何時間も喧嘩してたなとちょっと感心する。
あんなに無駄なエネルギーはない。
怒鳴って殴って引きちぎって叩いて罵りあう。
無駄無駄、無駄。それなのに何度も繰り返すのはどうしてだ。
うざったい。めんどくさい。邪魔な矛盾ばっかり。
いろいろ考え始めて言葉とうらはら、どんどん寝る気にはなれなくなる。
あくび一回で増してく感情はけだるさだけで、
眠気だけで流れてく涙は使い捨て。
吐いた後の喉はいがらっぽく、また冷蔵庫を開けて今度は紙パックのいちご牛乳を流し込む。
人工香料の強いイチゴミルク色の液体。鳥肌。ピンクは嫌いだ。
「あー・・・・うぜぇ」
こっちは四口ぐらいで飲むのをやめた。
また吐きそうだったし、今度は熱まで出そうだったから。
どうでもいいや、と思いながら残りは全部捨てた。
頭を掻いて、氷を出して噛み砕いた。
つめたい口腔。でも冷たいからって感情まで冷えるわけじゃないし。
ぐだぐだ言いながら洗濯機の水全部流して今度はすすぎして、
それ終わったら脱水して乾燥。
畳むのはめんどうだから放っておく。
そんなプランを頭で立てて、ベランダに出た。
春でも今日は暑い。
半そでで十分、半ズボンではちょっと寒い。
空は曇り。もうすぐ多分梅雨。梅雨のジメジメした感じは好き。
あいつは梅雨が嫌い。大嫌い。死ぬほど嫌い。
おめでとうございまーす、と心底汚い顔で笑ってやる。
一生梅雨ならいいと思う。
背中では洗濯機がまだガショガショ泡の混じった音。
すすぎは遠そう。暇つぶせるような気はしない。
ウーロン茶が飲みたい。
買いに行こうかな、そう思ってベランダから早々出て、
ちょっと鏡見てみたら酷い顔。土色と青色混ぜた顔。くまがあって目はよどんでて、
くちびる若干紫で目頭だけ赤い。ひどい。見てらんない。
せめて出かける前に顔だけ洗おうと洗面所に行く。冷たい水でちゃっちゃと洗う。
10回水かぶって乱暴にふいたらちょっとマシになった気がした。
スニーカー履いて鍵持ってお金持ってドア開ける。
ネイビーのドアはところどころ剥げかかってみすぼらしかった。
あいつやこっちが何度も乱暴にこのドアを扱ったのが一番おおきい原因。きっと。
色々昔の良かったことと最低なこと交互に思い出しながら、
丁寧にドア閉めて、丁寧に鍵かける。
尻ポケットに鍵入れて、もひとつのポケットで小銭で遊ぶ。
見慣れた道だし見慣れた緑。
スキップ気味に歩いて(脳活性にいいらしいよ)、
じゃらじゃらネックレス音立ててると、
犬とさんぽしてるおじさんとすれ違って、顔見知りなのでちょっと頭下げる。
おじさんは笑って、犬を撫でさせてくれる。
ちっさい柴犬。かわいい。思わず笑って、笑えたなぁと少ししんみり。
おじさんと別れた後はそんなにぎやかなイベントもなかった。
誰ともすれ違わず、鼻歌を口ずさむだけ。
うめぼしたべたーい、うめぼしたべたーい。
そんな歌歌ってたらうめぼし食べたくなってくる。不覚。
口の中の涎をもてあまして、ごくりと飲んだ。
ふたつ先の道を左に曲がって無事コンビニに到着。
じつはバイト先。今日は休み。
自動ドア開いたとたん、後輩が「あ」と言って小さく手をふる。
仕事中だろー、とどやして手をふり返してごめんなさーいの謝罪をもらう。
一瞬欲しかった言葉どんぴしゃのやつが来たから固まるけど動じない。
あーびっくりした。でもびっくりしただけ。
『動じません、勝つまでは』。即席座右の銘。
とりあえずカゴ持って店内を回ればいつものラインナップが並んでる。
まっさきに飲料水コーナー行って最初の目的のウーロン茶2リットルを放り込んだ、
けどすごい重いんで最後に持ってこうと戻した。
お菓子コーナーであれこれこまごましたものを放り込む。
コパン、ムーンライト、のり塩ほか色々。
腹に悪そうなものばっか選んで、次は普通の食料品。
迷いながら一応うめぼし。あとつけもの、白米。これが夕飯。
ついでにビーフジャーキーも引っかけてあと熨斗袋もつかんで、どんどんカゴは重くなる。
熨斗袋は友達の結婚式用、ビーフジャーキーはひとり晩酌のつまみ。
あとシャーペンの芯と糊とはさみ、ハードめのワックス。
対極なもの買うのっていつでもちょっと快感。
ようやく最後にウーロン茶をカゴに戻して、レジに行く。
後輩んとこ。けっこう嫌がらせ。
「やーほ」
片手でちゃんと挨拶。
一対一ならたぶん仕事中でも大丈夫。
「どーもー先輩、今日も良く買いますねー」
いい加減こなれた仕草でバーコードを潰しながら、呆れ気味に後輩。
言ってるのはなんでも見かけたもの買いたくなる性分のこと。
今日もカゴはかさばったものばかりで半分以上埋まってて、
先輩も後輩たちもおれの買い物のレジ打ちはしたがらない率ナンバーワン。
まぁ、おれも自分のレジ打ちすることになったらうんざりだけど。
「まね、買いだめ」
半分うそ。でも半分はほんとだから、あんまり悪びれもせずに言い訳してみた。
ふーんと空っ風のような後輩の相づち。納得してなさそう。
「・・・ってか先輩顔色悪いすよ、大丈夫っすか?」
いっぱい買いすぎな話は続かないよなぁと思ったのかどーか、後輩はさらりと話題を変える。
顔色悪いって?何秒分の観察眼だ。でもどんぴしゃ。
おめでとうとあいつとはまるで違う猫なで声で祝賀会。
そうです夜から朝まで喧嘩してました。
でも言いません。言わないで誤魔化してやる。
「大丈夫だよ、ほらあれだ、徹夜よ」
核心を抜かした返答。うそはない。お見事。
徹夜にはいろんな意味があるし、おれに限ってはさらにいろんな意味があったんで、
後輩がどっちかと言えばいい方に取ってくれることを願った。
さあどうだ返事は。
「へぇ・・・徹夜すか。へーえ」
そいで返ってきたのは訝しそうなのに半笑いまじりの怪しいふ抜けた声。
予防線は呆気なく大破。ガーン。
「そう。徹夜ですよ、徹夜」
昼間のコンビニっていっても飯時はとっくに過ぎてるから店内はガラガラ。
うしろに誰も並んでないのもあって、後輩はわざとゆっくりレジ打ちしてるみたいだった。
てきとうにはぐらかして財布出す。健全な徹夜ですよっていう声。
「3760円でーす・・・ま、がんばって下さい」
ずいぶん丁寧に袋に品物つめて、後輩は笑う。
高いなーと思いながら4000円だして、240円おつりもらって、袋を受けとる。重い。
レシートはつっかえして、40円募金した。
「がんばりますよ〜このボケ後輩!」
知ったような口聞くのにかちんと来て、冗談交じりに変顔で悪態。
後輩はそれを分かってるから笑って、
「ありがとうございました〜」とさらっと返した。大人。
自動ドア出て財布をしまう。
左肩が異様に重い。やってらんない。
左よりに傾いて、不恰好に歩いて帰る。
こういうときに限っていろんな人とすれちがって、かなり惨めな思い。
でも向こうの丘から見える桜が綺麗。
午後もけっこう過ぎて風が吹いてきたから、
こっちまで花びらが飛んでくる。ピンクは嫌いだけど桜は別。
自然ってどうしてあんなに豊かな色してんだろなとぼんやり思う。
なんだか本格的に眠くなってきた。
あったかい風とおだやかな空気は卑怯。
洗濯機動いたままなのにこのままじゃまずい。
重い左を急かして、家路に走る。
このまんま、家に倒れこんだで寝込んだら部屋中泡ぶくぶく。死んじゃう。
「ああああああ!」
どーにか頭奮い立たせようと喝ばりに叫ぶ。
周りの人がびっくりする。ごめんなさい変な人でって心の中で謝りながら走る。
桜の匂いがする。
なんか連鎖反応のように白檀の匂いも嗅ぎたくなる。
家に香の残りあったかななんて思いながら、
そういや乙女っぽい趣味もいろいろ文句付けられたこと思い出してむかついてくる。
堂々巡りもうやだ、って思っても止めらんない不幸。
ビールかっ食らって寝たい。でも洗濯機がある。
発作的に洗濯なんてしたことかなり後悔。うめぼし食べたい。
どたどた音立てて、錆びくさい我が家が遠目に見える。
どたどた音立てて、もっと早く走る。
抜けそうな肩引きずって、ポケットから鍵取り出す。
ネイビーの崩れたドア。剥げたドア。
行くときとは真逆、思いっきり乱暴に鍵を穴につっこんで右に回した。
左手は痺れてもう感覚ない。ウーロン茶なんか大嫌い。
もうとっとと濯ぎも乾きもすまそうとノブを焦って押した。
「ただいまっ!」
なかばやけっぱちで、ただいまおかえりの合図。
スニーカー飛ばすように脱いで、死骸の左手いたわるように、ビニール袋を玄関に置く。
「あー重かった!しねっ!」
不謹慎な口癖はなかなかどうして直らない。
けんかしてる最中も何十回って言った。
今思えばお互いさまかもしれないけどやっぱりむかつくのは消えない。
コンビニ袋からウーロン茶だけ出して、冷蔵庫にしまう。
残りはテーブルに置いて、あわっただしく洗面所へ行く。洗濯機洗濯機洗濯機。
「あああ、漏れてないかなー」
せめてすすぎになってから出かけりゃ良かったかなとか思いながら裸足でどたどたフローリング進む。
泡だらけになった洗面所を切れ端妄想。
後始末すること考えて嫌悪スパイラル。やだやだやだ。
ガチャっと洗面所のノブ回す。ノブだらけ。
「・・・・・あれ?」
ドア開けると顔洗った時まんまの洗面台。
でも、あれだけうるさかったはずの洗濯機のごうごういう音がしない。
あわてて洗濯機に駆け寄る。ふた開ける。からっぽ。・・・・あれ?
「あ、あれー・・・?」
しばらく呆然。
幽霊みたいに消えた服。中のドラムは新品みたいにぴかぴか。
「あ、あれ・・・なに・・・白昼夢・・・?」
ちょっと、いや、かなりの狼狽。
もしかしてこれまでのこと全部夢?
いや、でも、服は部屋に散らかってなかったし、なにより左手痛い。すごく痛い。
だからさすがに夢じゃないと。思うんだけど。
「いやー・・・・」
頭掻いて、後ろ手でドア閉めて、部屋に戻る。
こういう時やけに冷静になって、あーうめぼし食べたかったんだっけーとか思いはじめる。
意識あやふやなまま、冷蔵庫開けてまだ全然冷えてないウーロン茶のふた開けて、
今度はちゃんとコップ出して飲む。案の定ぬるい。
コップ持ったままテーブルまで行ってビニール袋あさる。
のりしお、漬物、白米、エトセトラ・・・うめぼし。
今さっきコンビニで買ってきた記憶まんまの品物。やっぱ、夢じゃない。よなあ。
「じゃー・・・なんでだ?」
もう一口ウーロン茶飲んで、コップはテーブルに置く。
洗濯機がからっぽなら、その中身の服はどこいった。
夢じゃなかったことを念のためもう一回洗面所にいって確認する。中身はやっぱりからっぽ。
服。服服。
まとめてあそこへ放り込んだ服はだいぶ多い数だったから、
家にあるならかなり分かりやすいはず。
狭い家だからきっとすぐに見つかるはず。探すことにする。
「えー・・・と・・・」
帰ってきた時玄関にはなかった。
キッチンにも、今見てきた洗面所にも、部屋(つーか居間)にもなかった。
どうかなとベランダを覗く。砂ぼこりでひどい有り様。ここにもなし。
トイレも見る。狭いから入りきらないだろーけど念のため。やっぱりない。
んーと唸って最後に居間の隣にあるちっさい四畳くらいの部屋を覗く。
ここだけ引き戸。おれの寝どこ。あやしい。
「・・・・・あ!」
ザララララと軽い木の戸を開けると、そこにはうず高く、
だけど妙にきれいに畳まれた服の山。ビンゴ。精悍。よくよく見るとすごい量。
おそるおそる近づいて、布団を掻き分けて洗濯物を見る。
白い。きれい。汚れすっきり。匂いもなし。
「ん?なんじゃこら」
よく見ると、洗濯物の一番上にはペラペラの紙切れ。
なんか文字が書いてあるので、つまんで読んでみる。
そこには二行弱の短めな文章。やけにかっちりした文字。見覚えある。ちょっとやな予感。
なになに。
・・・『居なかった上洗濯機回しっぱなしだったのですすいで乾燥して、
   畳んでやりました。一生感謝すればいいと思う。あと、その、ま、なんだ、・・・ごめんな』
・・・・・・・・・え。
・・・・これ。
あー・・・・・。
「あいつ!」
思わず叫んだ。
一瞬むかついたこと悪態ついたこと死ねまで言ったことどうでもよかったこと全部忘れて。
頭の中まっしろになって、あいつの諸々がだらーっと流れ込んでくる。
肩を引っ付かまれたように跳ね返って、よろけながら、紙切れ持ったまま玄関へ走る。
いつも喧嘩してどっちも頑固だけど結局謝るのいつもおれの方だったから文字が信じられなくて、
うそだうそだうそだ、と頭のなかで絶叫で反芻しながら走る。
どたどたどた。でかい足音。慌ててる音。
フローリング滑って転びそうになる。
すごい狭い家ですごい近い玄関なのになぜかものすごい遠く感じる。
肩で息して、うそだうそだうそだが続く。オートリピート。
「ま・・・・!」
居ないのわかってるのに、ぜんぶ分かってるのに待ってくれと出しかける。
幻影に延々すがりつくみたい。女々しい。
心臓ばくばく。止まらない。ばかみたい。くやしい。
「・・・・・・・はぁ、はぁ、」
そして玄関へスライディングする勢いで飛び込む。おれの靴。おれのサンダル。おれの傘。
そこにあるのはおれのものだけ。
他にはなんの痕跡もない。あいつの残り物なんてなんにもない。
痛い肩で息するおれの痛い左手だけに残ってる紙切れ以外はなんにもない。 力が身体の芯から抜けてくみたいに座りこむ。
なんであんなにむかついてたのに、
なんでこんなに必死になってるのかしらって頭は大混乱と超冷静の二極化が進んでく。
紙切れを読みなおす。
文字書くとこあんま見ないわりに覚えやすい書体。
取り繕うようなやさしさだとか傲慢にごまかす性格だとか素直なとことか、
いいとこもわるいとこも詰まった短い文章。よくわかんない。
分かるのは謝られたことだけで思考よく回んない。
なんなの。また苛立ち。また憤り。また動揺。
目覚ましに酸っぱいもの食べたい。うめぼし食べたい。
っていうかこの状況でうめぼし食べたいおれって・・・・・。
「べただなぁ・・・・・・」
超冷静なおれの方がつぶやく。
あん時口ずさんだ歌詞まんまな気持ちの自分の恥ずかしさに。
紙切れ視界にうつる。つのる。だめだ。助長。かなり小さく折りたたむ。
大人しくうめぼし食べよう。忘れらんないけど。
そう思って足に鞭叩いて立つ。ちょっときつい。ため息一回、うな垂れ一回。
居間は雑然としてる。いつものまんま。
テーブルに置いてあったうめぼしの蓋をべりべり開ける。
鼻つく匂い。口に入れるのにちょうど手ごろいい粒を丸ごとひとっつ放り込む。
耳たぶよりくちびるより柔らかい感触はおっぱいに近いかもしれない。
内側の肉に染みる酸っぱさ。うすい皮を舌先で転がせば、すぐにぶよぶよした中身が出てくる。
繊維まじりの淡いふれ合い。こんにちは。
噛みたくなくてなんどもなんども舐める。なんどもなんども酸味を感じたくて舐める。
でも舐めるたび果肉はどんどん舌の奥と喉へ剥ぎ取られていって、
硬いざりざりした感触がいつの間にか増えていく。
うめぼしという世界の中心。うまれた場所。うまれてく場所。
ごろごろごろごろ、そんな風に思いながら後味だけ残る種を口のなかで遊ばせる。
あれほど待ちこがれたうめぼしだったけど大きい感慨とかはなかった。
残って落っこってるのは余計なものばっか。
種口に入れたまま、つけもの冷蔵庫に入れる。
コップに残ってたウーロン茶を全部飲む。そのまま流しに置く。
お菓子をお菓子棚に置いて、左手に握ってた紙切れもテーブルに置いた。残りは放っておいた。
あ、と思い出してベランダの窓近くのタンスの中の香を漁る。
ひのき、竹、すずらん、さくら、沈香、うめ。
色とりどり匂いとりどりの長くてひょろい線香たち。
掻きわけてお目当てを捜す。
桜に触発されて嗅ぎたくなったいかんともしがたいどうともつかない木の匂い。
あった、白檀。残り二本。こんど買ってこよう。
まっさらでつるつるした香立てと香をビニール袋をどかしたテーブルに置く。
その辺にあったマッチ探して、香を立てて、マッチを擦る。
赤おれんじ青。混ざる色。そっと火を香に入れる。息で火を消す。
蒸されてはじけるオイルより煙が川みたいに流れてたゆたう香が好きだ。
細い線から煙が昇る。ゆっくり。じわじわ。
和の匂いがおれは好き。
「さてと」
徐々に部屋中に広がる白檀の匂いにすこしだけ窓をあけて、おれは寝どこへいく。
いちばん匂いの心地いいおれの寝どこ。
がらりと引き戸。万年床。でもふかふかなのはこのあいだ干したから。
・・・・・いや、干してくれたから。
戸をぜんぶあけっぴろげにして、あおいで、匂いをめぐらす。
鼻ひくつかせて満足な濃度を確認する。
音立てないようにふとんにあお向けになる。
ふかふかで気持ちいい。やさしい太陽と白檀の匂いがまじる。癒される。
ちょっとだけでも目線を上にすれば山の洗濯物が見えた。
しばらく眺めて、でもおもむろにおれは起き上がる。
タオルからズボンからTシャツからマフラーからカットソーからジャケットまでぜんぶ並んだ山の中で、
おれはちいさいハンドタオルを手にとった。
もらい物。だいじにしてる物。もうよれよれの物。
またふとんに寝転んでそのタオルを広げてみる。
もらった時よりずいぶん色あせて所どころ糸が伸びてる。みっともない。でも捨てられない。
覚めるような青緑色がいつぞやの上下左右を思い出させる。
楽しい嬉しい悲しい苦しいつらい面白い。
いろんな感情がぐるぐる混ざって思わず広げた真四角のタオルを顔に押しつける。
洗剤の匂い。あいつがつけた匂い。せつない。女々しい。
背の太陽と顔の洗剤とそしておれの白檀。みっつの匂いはそれぞれの生活と気持ちの総まとめ。
紙切れの言葉に許そうとしながら許さないと思うおれ。
箍は外さないし外れない。
迷っているけど怒りは消えない。
あいつの気持ちを吸いながら、おれは自分の気持ちも吸っているのだなぁと思う。
朝になればすっかりおれの匂いに染まってしまう洗濯物たちをながめながら、
あのごめんなの文字、いくぶんも真面目だったあの文字も、
おれの匂いに染まってしまうのかなぁとも思いながら。
舌の奥の種が苦い。
「うめぼしたべたーうめぼしーたべーたーぼーくは、いーますぐきみにーあいたいー」
そんな歌唄う。いじった過去形。ばかだなーと思った。
視界ぜんぶが青緑色のなか、できるだけおれはあいつの匂いを嗅いだ。
まだ夕方には早い、桜のおわる季節のなかで。