11/ 混迷している愛情に気付いたのはいったい、どこでだったろう 寂しい雑踏の中だったろうか、賑やかな風景の中だったろうか、あまり記憶はない それでも、今まで艶やかな理想でぼくを覆っていた『慈しむ』という感情があっさりと崩れ去ったことは憶えている 臆病なまでの距離でぼくと呆気なく結合していった慈しみ それは、ひどく黒ずんだ色をしてぼくの中に佇んでいた ぼくの内の正しい美しさ全てを否定されたあの時、 世界中で人類がぼく以外すべて淘汰されたような気分だった 12/ 生ぬるい粘液にまみれたように、おれはそこにいた。 まるで口の中に血の味が広がるみたいに、嫌な感覚で暗い視界が存在している。 さっきから絶え間なく襲ってくる、木々のざわめきや温度のない人工的な音。 雨に濡れた身体が、ひどく重い。 これからおれはきっと、あまりにどうしようもない現実に、押しつぶされそうになるのだろう。 おれは、おれという人間が消えうせる瞬間を待つのだ。 じっとうずくまり、笑いもせず、ただ恐怖を目の当たりにして、そして、目を閉じるのだ。 13/ 羊みたいな君の顔をぼくはきっと忘れはしない 君の間の抜けた言葉や、毒気のない感情や、鈍足な雰囲気も忘れはしない どうしたって忘れはしない、絶対に忘れはしない これからぼくがどうなろうとも、容易いちぎれ方をしようとも、 君がどれだけくるしい淵で途切れてしまおうとも、君から何も残らなくとも、 君だけはきっと、ぼくからだけは消えはしない 14/ 目の前の、その顔は平然としていてそれでもあまり抑揚はない たまに鈍く微笑んで、たまに悲しい顔をする 汽車の音が響くここは、あまりにも唐突でもどかしい 窓の外にうかぶ、闇夜はどうしようもない不安で形成されているようで この目の中はかすかに言いよどんで、滲んでいってしまう そんな思いを飲みこむように、汽車はけたたましく笑い 流れる星の残像はゆるやかにスピードを上げる 話を続けながら、まるで陽炎のようにはかなく外を眺めつづける格好を見て いつしかその顔や姿は呆気なく消えてしまうんじゃあないかと思い ひどく泣きそうな僕は君の手を強く握りたい 15/ 手を上げた。そして顔を見て、表情をしかめた。 上げた手は宙ぶらりんになって、だらしなく歪んだ。 吐かれる息はまだ白くはなく、吸い込んだ息も同じように白くはなかった。 空だけがやけに青々しく光彩を増している。 ふつふつと胸に涌く懐かしさではない淡い感情。 その不器用さに何故か手放せないものを感じた。 感情に沈んだ碇。そこで留まらせたものを俺は知らない。 それでも、こちらに気づいた時、相手が見せた不快な顔は、決して放っては置けないものだった。 16/ 文字や声にして自分を知るプロセスをおれはいつも辿ってきた おれの感情、おれの言葉、おれの価値観、おれの思考、おれを形成してるもの おれの全てはいつも不安定なものだった 常にゆらゆら揺れるシーソーのようなおれ自身、 知る不自由さと知らない不自由さを抱えて、いつしかおれはおれを模索することを強要されていた 望まない重りはいつだっておれの邪魔をする まるで、神さまってやつがおれの存在をどうしようもないくらい疎ましく思ってるかのように 17/ 目先から見えるその鋭さも、腕に掲げたその兵器も、恐ろしいと思ったことはなかった 寧ろそれを観ていた己は、いつでも狂ってしまいそうな程、昂揚に堕ちていた その眼孔に脅える前に出る、湧き上がった感情と執着に沈む温度 手を伸ばしても届かないそれは、増すごとに膨れて満ちる 『なにも、恐ろしいことはない』 赫色に滲じみ、染みる、薄汚く浅ましい思い 己の心が潰れるまでに、この身が崩れて剥がれる前に、必ず、掠め取ってみせる 18/ 総対称の雨が振る。 僕の周りだけで、死ねと漏らすような雨が降る。 逃げればナイフが襲い、からくれば半分になって息が止まる。 「まやかしだ」 愛していると言えば、ことは済む。 全て望める、柔らかで美しい、うぶくような生産だ。 「・・・まやかしだ」 逃げ場を求めて来た場所からはもつれても動けはしない。 分かっていたとしても、手は引けない。 融合していく狂気と慈悲。 雨は止まない。 僕の周りだけで、世界は欠けていく。 19/ 背に伝う手は細くなだらかで、それでいて凶器のようだった 肩甲骨から腰骨へ落ちる指先と、糸のように続く息遣い 体の周りで這うそれ等は蜘蛛のようで、まるでそのまま絡め取られて死ぬみたいだ 熱い呼吸と、冷えた目と、上げる声の無感嘆さ 肌に立てた爪は血を滲ませない距離でじっとりと襲いかかる 長い闇にインクの染みが広がるような等圧感が喉元を過ぎてタールを塗りこんでいく 下でうぶ声をあげるその顔も、今はからくりの兵士にしか見えない 朝は来ない、揺らいだ鋭利は削がない、つまらない滴りだけが大きさを増す、 『止めろ、止めろ、止めろ』、手探りで押し退けようと触れも出来ない 脳でのたうちまわる声は出ない、煮えたぎっても掴めない 生臭い臭いと唾液の気味悪い音が浸食する部屋、見えたのはただの木偶人形ひとつだ 20/ こちらへ向う線はないし、あちらへ向ける線もない あるのはいつもただ無様で醜い感情だけだ 君は笑っているけど、その裏にあるのは冷たい残酷な眼だ 僕なんかよりもずっと酷い、なんでも絞め殺せる冷たい眼だ でも僕はその中につまらないくだらない暖かみがあるのを知っている それは僕だけに向けられる暖かみで、誰にでも向けられる柔らかい防御だ 僕が求めていない優しさと、僕が求めている冷たい眼 それは僕の中のゆるやかな狂気だ 僕が求めていない僕の安堵と、僕が求めている君の嗚咽 君なんかよりもずっと酷い、それは僕の中のつまらないくだらない愛しさだ |