「ごめんな」 確かにきみがそう言ったのを、憶えている。 おぼろげな記憶の中できみは密やかに笑っている。 でもあの時、きみは小さな部屋で、 感情を無表情で押し込めた、どうにもならない顔でぼくを見ていた。 怒った顔しか見たこともなかったからだろうか、 反対にその時のぼくの顔は、恐ろしく酷いものであったと思う。 一言、呟くような声で言った。 目の前でぼくの目を見据えて手を強く握って。 微かなその言葉。 今でもぼくを無意識に、それでも確かに深くゆらゆらと揺らしている言葉。 「ばかだな」 反射的にそう返した呆気ないぼくの言葉は、どう映ったんだろうか。 きみの眼の表情は憶えていない。 潤んでいたかもしれないし、乾ききっていたかもしれない。 今では何もわからない。それに均しい。 ただ、一つ分かることがある。 あの時だったぼく、この時のぼく。 きみの言葉は、音を立ててスイッチになった。 ぼくの中でオフからオンへ、軽やかに。 そんな単純なスイッチを自覚することもなく、 ぼくはそれからずっと日常に溶け込んでいた。 あまりにも自然に、穏やかに、起こった出来事さえまっさらと忘れたように。 突き刺さった言葉を抱えて、揺られた小船に心だけ残して。 あれから数えらる程、少しの年が経った。 あの時のような思いを、ぼくはもう出来ないのだろう。 そう、ぼくは思う。 今でも充分、あの時の感情や表情は焼きついているし、 その言葉も、その風景も、そこで見た夕日の赤や、映る影も忘れていない。 それでもスイッチは限りなく平常を努めて、ぼくを蝕んでいった。 無難、という暖かな培養液の中にぼくをゆっくりと浸して。 忙しい日々の中、ふとこの情景を思い返して、きみを思い返して、 きみの言葉を思い返して、奥でいつの間にか押されていたスイッチに気付いたんだ。 そのスイッチはもう、決してオフには出来ないんだ。 ぼくは今、知ったんだ。 あの時きみが押したスイッチはおそらく、 過去は振り返ることしか叶わない、それだけを知る為の、大人のスイッチだったんだ。 |