Night




上等に伸された漆黒の翼がふとんの上で寝息を立てている。
僕は目が冴えて仕方がないので、まっくら闇の中起きている。
そのへんにあった飲みかけのチューハイをごくごく飲んで、息をつく。
顔を二の腕でごしごし擦ると濡れた髪からしずくが垂れて鎖骨を通った。
下腹部がほんのわずか痛い。まぶたは腫れているのだろうと思う。


暗闇が部屋を支配している。呼吸がふたつ上下している。
真横の寝顔がひどいくらいに穏やかなのが無性に腹立たしかった。
いくらその羽根が上等だろうとその存在はごみを漁るカラスのようなものだ。
重くねばった身体を酷使し、チューハイを一気に流し込む。
焼けた喉に焼けた液体が散らばっていく。
僕はカラスの顔を引き裂いてやりたいと、ただ曖昧に感じていた。


身体がいろいろな理由でだるい。
この隣のカラスの家に訪れたのは今日の夜、そして今は明日に足を伸ばした夜だ。
酒を飲み、もたれ込んで、カラスの羽が散らばって、僕はひとりでシャワーを浴びた。
そんなどこにでもある夜だ。髪が冷えている。首にかかったタオルを頭にやる。
下を向けば頭がずきずき唸った。浴びるように飲んだ酒がゆっくりと血に溶けて、熱を生んでいる。
しびれるような熱さはどれだけ経っても心地よさだけを供給してくれる。
まるで、凍えた冬に見る幻のように。


カラスが起きる気配は無い。それなりに整った顔で寝ている。
ざんばらに散った黒羽根を枕に乗せて、裸で寝ている。横たわった姿は貧相だ。
空になったチューハイの缶を置き、ゆっくりと覗き込む。
濡れている僕の髪から水滴がたれた。カラスの顔に落ちる。
起きるだろうか。苦悶じみた表情が浮かぶ。乾いた羽根。夜に沁みる羽根。
胸のあたりがずきりと鳴った。タオルを頬に寄せようとすると手の甲の赤みが見えた。
楕円を描くその赤みはしるし付けられたわだかまりだ。
カラスは寝言まじりに雫をぬぐった。僕はそれを眺めていた。


ふと部屋の時計を見る。11時30分。止まっている。
カラスの顔から遠ざかり、億劫がる身体を引きずって携帯を取る。
ガパリと赤いカバの口を開くと1時20分と照らされる。眠る気にはなれない。
醒めた視界は部屋を映す。なにもかもが乱暴に散らかっている。
僕の服もごみのようにふとんの周りで捨てられている。僕も捨てられている。ポロシャツを取って着る。
ズボンは遠い。面倒だったので近くにあったカラスの物をのそのそと履いた。
フローリングから立ち上がる。足元だけがひやりとしている。
歩いて、窓を開けてベランダへ出た。半そでだと少し寒い。あちこち、周りは明るい。
風になびく髪は少しずつ乾いている。タオルが飛ばされないように、両手で押さえた。


ここは都会なので星は見えない。烏のように黒い空。
ベランダに出たところで、思い出すのは鬱陶しいことばかりだ。
胸ポケットを探ったらレシートが出てきたので、小さくちぎって風に飛ばした。
することはない。煙草が吸いたい。ズボンをまさぐる。スウィーティー味の板ガムが出てきた。
カラスはガムが好きだ。特にこの、スウィーティーの味を好いている。
カラスの近くはいつもガムを噛む汚らしい音とスウィーティーの匂いがする。
しばらく眺め、僕は包装紙をとってガムを口へ放り込む。
何もないよりはいい。口の中に合成された人工の甘みが広がる。カラスの匂い。
身体はまだだるい。そして重い。手すりに体重をかけると鳥肌が立った。
スウィーティーは舌を侵食していく。痺れるような甘みだけを残す。


酒が身体からふり落ちていく感覚が広がっている。
外に出ているからかもしれない。口を不器用に動かして、不器用にゴムの風船を造る。すぐに割れる。
酒のせいで妙に冴えていた頭がゆっくりと眠りを求めたがっていく。
ずるりと深く体を手すりに預けると、すこしまどろみに溺れるようになる。
いつだって素足と素肌が爆発するように絡み合う姿は醜い。
ふり返るとレースのカーテンが揺れている。傷を隠すための包帯。
闇にまぎれるカラスの姿を睨む。ガムの味はすぐにかすれてしまう。
味気のないゴム。それはきっと爆発するような醜さで、それはきっと僕らと同じ醜さだ。
僕は酒くさいため息をついた。腫れたまぶたが軋んだ。これはいつもの夜だ。


寒い。このまま眠ったら、どこかの貧しい少女のように朽ち果てることが出来るだろうか。
マッチを一本燃やして夢を見て、そのまま息絶えることが出来るだろうか。
くだらないことを考える。僕は檻につめられた豚だ。
好き勝手に食べられて、好き勝手に捨てられているただの豚だ。
味の絶えたガムを口から取り出して、胸ポケットにつっこんでいたくしゃくしゃの包装紙につつんだ。
まだかすかに口腔にはスウィーティーの味が広がっている。
板からいびつな球に形を変えたぶざまなゴムはただの笑いものにしかならない。
僕は鳥肌の立つ肌をかばうようにタオルを当てた。パイルの感触は少しだけ、心地よかった。


しばらくそうしていた。凍えるような風が吹いて我に返った。
素足が青ざめている。触ると恐ろしく冷たかった。部屋に戻ろうと思った。
よたついた格好で虚しさだけをベランダに残す。フローリングに足をつける。
窓を閉める。はじめ、中に居たときよりもずっと暖かく感じる部屋はひたひたと音がする。
変わりのないカラスの寝顔が掠める。体形。苦悶交じりの表情。
僕はカラスのズボンを脱いだ。カラスの交じった僕の身体は純粋な濃度に戻っていく。
僕は自分のズボンを拾って履いた。僕は僕になっていく。檻の中の豚のままで。


ほとんど酒は抜けていた。しびれるような熱さはもう僅かに存在しているだけだった。
このまま、カラスは朝まで起きないのだろう。
僕を剥ぎ取り、僕を破り、僕を捨てたまま、カラスは穏やかな眠りに落ちている。
修羅にも似ている苦行を僕はさまざまに頭の中で思い浮かべた。
そのすべてをカラスこそが受ければどんなに素晴らしいのだろうと思いながら。
頭の中でカラスは断末魔の叫びを上げていた。すべてはベルベットの夢で終わる。それも知っていた。


夜をすり抜けて、サンダルを履く。まぶたの腫れはひいただろうか。身体はだるさを保っている。
広い玄関は温かみが失せている。ドアを開けて、そして閉めた。静寂の中に重い金属音が混じり、消えた。
ドアにずるりと凭れかかり、真正面に見える夜景を見る。美しすぎて、気持ちが悪い。
僕は首に手をやって、まだそこにタオルを掛けていることに気付いた。
漆黒の残骸。下腹部が痛い。髪の毛はもう乾いていて、僕は、タオルを頬へ当てた。

いつもの夜もいつかくずれる

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