The lining




「うわさ?」
「そう、噂!」
彼女はそう言って、新品のノートから今破ってきたような紙切れを私に見せた。
「今、10月でしょ?でも、桜が観れるんだって!」
手の中の紙切れには、走り書きのようなメモが2、3行綴ってあった。
癖のある彼女の文字は、一見だと読みにくい。
「猫ばあちゃんちの、裏の土手!あそこ!」
メモに指を這わせて、彼女は窓の外の景色に目をやる。
確かに、よくよく見ればメモには『猫ばあ』とか『裏』、『土手』なんかの単語が並んでいる。
猫ばあちゃんってのは、この学校のすぐ近くに住んでいる猫好きのお婆ちゃんのことだ。
何十匹も猫を飼っていて、お金持ち。
ばあちゃんはかなりのくせっ毛で、いつもふたつ束の毛がはねている。
年の割にはけっこう綺麗で、魚が大好物。
だから、『猫の女王の世を忍ぶ仮の姿』なんていう噂もある。
他人の口から、友人の口から風のように流れてくるうわさ。
私はそういうふと出る『噂』が好きだ。
摩訶不思議で、時に恐ろしくて、それでいて滑稽で。
玉石混合の海を泳ぎ、そんな噂を集めて心の中にしまいこんでは、私はこっそりと笑っている。
彼女は、私がそんなおかしい性癖を持っていることを知っている唯一の友で、
今日のように、いつもどこからともなく怪しい話題をかき集めては、私へとせき切ったように教えてくれる。
「あそこ?あそこで桜が?」
「なんでも、その桜は『桜であって桜じゃない』って」
桜であって、桜じゃない?
「・・・何、それ。どーいうこと?」
間延びした声は、心の内で涌いた訝しさそのままの温度で出た。
怪しい話題は、大抵しり切れとんぼで、真実を濁しているものだ。
「だーかーら!それを確かめに行くの!今!今すぐ!!」
唐突にそう言いきると、彼女は私の腕をもの凄い力で掴む。
華奢な首から発せられる言葉は、そこから出てるのか疑うほど強くて、よっぽどうれしそうだ。
私は彼女の顔を見て、少しだけため息をついて、席を立つ。
「・・・わかった、行くかぁ」
机に残されたカバンと蛍光ピンク色のマフラーを両手で掻きこみ、彼女の力に倣うように、私は教室を後にした。

「どんなんだろうねぇ、秋の桜!」
「どんなんだろうねぇ」
しばらく歩いて、すっかり目の前の景色は様変わりした。
後方の遠くには猫ばあちゃんの家。
前方は見事なベージュのじゅうたんだ。
力をなくした草たちがしおしおと揺れている。
寒いというのに隣で制服のそでをまくり始めている彼女を見て、私は少しだけ笑った。
あながち、噂の真実を求めて翻弄するのは、私も嫌いじゃない。
それに秋の桜なんて、なんだかやけに風流で、粋だ。
すべてが枯れて朽ちゆく季節に芽生えるものがあるなんて、それだけでなんだか素敵・・・だと、
そんなことを考えてしまうなんて、私もロマンチストだなぁとしみじみ思う。
「うん、まあ、とにかく探そう!」
私は話を持ちかけられた時から初めて、気合を入れた大声を出す。
乗りかかった舟、この際漕ぎ出してしまおう。
彼女とは逆にしっかりマフラーを首に巻きつけて、私と彼女は勢いよく草原へ飛び出した。
「・・・・あった〜?手がかり」
「ない!ないない!!」
草をかき分け、あるいは橋の下を見つめて、『桜であって桜でないもの』を探す。
桜でないのなら、何なのだろう?
ピンクの色をした蝶や、まがい物の造花?
あるいは何かの偶然でそんな幻影が見えるだとか、もっとオカルト的なものなんだろうか?
なにしろ、ヒントがこれしかない。
思ったより途方ない。
土手はいつも見るよりもっと凶暴的な広さで、私たちを襲う。
これじゃあ、本当に砂漠で落とした何かを探しているのとおんなじだ。
いや、探しているものが何なのか分からないぶん、私たちの方が難しいかもしれない。
「なーいねぇー」
彼女が伸びの姿勢で、こっちへ声をかける。
革靴は汚れてしまったし、ブレザーも土くさい。
「本当、ないわーこれ」
動いているせいか、少し暑くもなってきた。
さっきまで寒いと思ってたのに、背中のほうが汗ばんでいる。
首元も邪魔になってきたので、ぐるぐると巻いていたマフラーを取り、私は足元のカバンに・・・
「あっ!!」
「あーあー!!」
そうカバンにマフラーを入れようと、思った瞬間、突風が吹いた。
突風はあまりにいきなりの突風で、油断していた私の手からマフラーを簡単にさらった。
私の(そして彼女の)声と共に、手からアクリルの感触が離れる。
カバンに収まるはずだったどきつい蛍光ピンクが、ふわふわと空を跳ねる。
「ちょっ・・・まっ、待っ!!」
絶妙な高度を保ちながら、草原の奥まった方へマフラーは流れていく。
慌ててそれを追うものの、足がもつれてうまく踏み出せない。
あやうく転びそうになりながら走るが、その時、真横から影が駆けぬけた。
「遅いよ!早く!!」
めいっぱい焦った顔で、横をすり抜けたのは彼女だった。
あ、そういえばすっかり忘れていたけど、彼女は陸上部のエースだったんだ。
軽い叱責に押されて、私もなんとか走り出す。
「・・・よっ、っと!!」
かろやかな動きで、ずいぶん先に行ってしまった彼女は、ジャンプしてマフラーをつかんだ。
「とれたよー!」
着地すると同時に、彼女が右手をふる。蛍光ピンクも、頼りなく揺れる。
「ありがとう!今行く!!」
かなり息が切れて苦しい。
もう桜どころじゃない。
変な顔で必死の感謝を唱えながら、私は彼女の元へ走った。
「大丈夫?マフラーは、無事だよ」
両手でマフラーを差し出しながら、彼女は『ははは』と笑う。
「ごめん、ありがとう」
それを片手で、私は受け取る。
彼女は私を見て、また笑って・・・そして不意に私の足元を見て、固まった。
「・・・何?どうしたの?」
私は怪訝な目をして彼女を見る。
一点を見つめたまま、彼女は動きもしない。
「ね、ちょっと」
なるべく下に視線を向けないようにして、ゆっくりと聞きなおす。
まるでロウで固められたように、彼女はぴくりとも反応しない。
不審がる目に、億劫な返事。
私がそんな負の感情を少しだけ表したのと同時、
脅えているのでも、面白がっているのでもない表情で、彼女はゆっくり言った。
「ねえ、他にもなにか落とした?」
「は?」
「例えばスイッチとか」
「へ?」
返事は一回。どちらも一回。同じような疑問系だ。
彼女はそのままの答えを差し出して、促すように指を下へ向ける。
「・・・何?」
静かに私は下へ鼻を突き出す格好をする。
訝しげな目を草むらに揺らせると、彼女が言った『その物』は確かに、そこにあったのだ。
「スイ・・・ッチ」
「だよね?これ、スイッチだよね?落としてないよね?」
私がそのスイッチ・・・ひどく分かりやすい姿をしたそれを呟いたと同時、
彼女はまるで私に噂を教えてくれる時のようにせき切って質問をまくし立ててきた。
金属の四角い基盤に、赤塗りのでっぱり。
草にまぎれて、私の足元にそんな容姿のスイッチが埋めこまれていた。
「こんなの落とせないよ、私だって」
冗談めかしく笑って、私は彼女へ顔を上げる。
そうだ。
こんな完璧な起爆装置じみたものを、一般人が持てるはずもない。
気持ちが動転しているのか、彼女はなお少々うろたえ、
胸に手を押さえるともっとそれがよく見えるようにしゃがみこんだ。
「なんだろう、これ」
吐息を落とすようにそっと彼女は喋る。
私もつられてしゃがんで、まじまじとそのスイッチを眺める。
「あ・・・もしかして、これが桜!?」
「ウソ、まさか」
突飛に吐いて出してきたその言葉に、返すのは過多の疑りと小匙一杯の期待だ。
「これ、これを押すとさ、桜が出てきたりするんじゃないっ?」
ひとつの予想と共に、押さない程度の力で彼女はスイッチに人差し指で触れる。
きらきら輝く目は好奇心でたまらない、という表情で、
指の関節は今にもそのでっぱりを押したそうに、うねうねと迷っている。
「じ、じゃあ・・・押し・・・て、みる?」
噂の真相を確かめるためにここに来て、
蛍光ピンクに導かれて、ようやくヒントらしきものにたどり着いた。
彼女の背中を促しながらも、
『もしかしたら本当に起爆装置かもしれない』
『もしかしたらとんでもなくマズい国家機密かもしれない』
なんて物騒な考えが、あっちこっちから飛び出しているけど、
でも、ここでこれを押さなきゃ、なんだかどうしようもない気もする。
「押そうよ?もう押しちゃおうよ?」
つんつん、と赤色を突付きながら、甘い声で彼女は催促する。
「うん!・・・もう押そう!」
そして、私は片手で小さいガッツポーズを作った。
危ない考えを吹き飛ばすために、秋の桜を見届けるためにだ。
「やったー!それじゃ、押すよっ!」
彼女はその言葉に、充分に顔をほころばせて頷いた。
私のように臆することもなく、期待で満ちた顔で、勢い良く彼女はスイッチを押した。
『カチッ』と、小気味よい音で、赤いでっぱりが数センチ押し込められる。
私と彼女は固まって、ことの成りゆきに身をまかせる。
風が吹いて、私はつばを静かに飲みこむ。
・・・だけど、5秒経っても、10秒経っても、周りにも、目の前にも、変化はなかった。
あるのは、さっきと何も変わらないベージュのじゅうたんと、スイッチだけだ。
出てくるかもしれなかった桜もどこにもない。
やっぱり、噂は、噂なんだろうか。
私はなるべく彼女にはばれないようにして、肩を落として落胆した。
「なんにも、出ないね・・・」
彼女の声が聞こえる。
彼女の声も、私と同じかそれ以上に落ち込んでいた。
あれだけ期待していたし、なにしろ話を持ってきた張本人だ。
ショックは多分私の何倍分かもわからない。
ああ、秋の桜。
ロマンチストと、その友人の願いは、結局叶えられなかった。
「ただのイタズラだったのかもしれないね、これ」
私は立ち上がって、スカートをはらって、言葉少なく彼女へ声をかける。
もう一度風が吹いて、ひゅう、と音を立てる。
「なーんか出ると思ったのにー・・・、あーあ、やっぱり噂は噂なのかなー」
スイッチを指先ではじいて、彼女も立ち上がった。
私が思っていたよりも彼女はあっけらかんと私に笑って、
カバンを取って、『帰ろうか〜』と朗らかに言う。
「かなり期待してたのにねー」
奥まったところから抜け出すと、まだ日は高かったものの少しだけ肌寒くなっていた。
もう一度私はマフラーを首にまきつけて、小さくため息をつく。
遠くの猫ばあちゃんのこじんまりした家が、なんだか慰めていてくれる気もする。
「ほんと、あれだけ探してなんにもないって、悲しーよ」
草むらをかき分けて、私たちはずっと愚痴の応酬をしていた。
1時間以上探してたのにだとか、時間返してほしいだとか、お腹すいただとか。
それにしても、あのスイッチ。思わせぶりすぎて、腹が立つ。
「あー、早く家かえって、昼寝したーい」
「あーパフェ食べたい」
愚痴は、それぞれ願いになって、青々しい空に溶けていく。
『桜であって桜でないもの』の正体も分からず、私たちはカバンを振り回しながら歩いた。
帰り道は遠回りをして、近所の古そうな喫茶店に入って、クリームソーダを飲んだ。
懲りずに噂の話をしながら、(例えば『学校の池に金色の蛙が出る』だとか)
私たちはまた探す?なんて冗談をいって、笑った。
こうやってひどい仕打ちをされても、私は噂を嫌いにはなれない。
かげろうのように揺れる、あってないような真相こそ、噂であると、私は思う。
ああ、空が赤い。
秋はもうすぐ、冬になる。

後日、一人でもう一度スイッチを探しにいったけれど、
(蛍光ピンクのマフラーはしていかなかった)
あの金属板はこつ然と姿を消していた。
今度は何時間探してもスイッチは見つからなくて、
しょうがないから、結局諦めて帰った。
スイッチを押した日、猫ばあちゃんの家の庭で謎のピンクの紙が舞った、
なんて話を彼女から聞いたけど、それもこれも、また別の話だ。

髪の毛が一本だけピンクになるとか、空に桜色の旅客機が飛ぶだとか、そんなことでも

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