■長崎市の民話・伝説


◆ジャガタラお春
徳川幕府によってキリスト教が禁止されていた当時、西洋人だけでなく西洋人を親に持つ混血児も国外へ追放していた。お春もその一人で、ジャガタラ(インドネシア・ジャカルタ)へと流されることとなる。長崎の里親宛に送られた彼女らの手紙は「ジャガタラ文」と呼ばれ、お春の手紙は「長崎夜話草」(西川如見著)に収められている。


◆牛おにと白鳥
長崎市の北、烽火山の近くの吼牛山。三股太夫という長者のもとで働いていた牛番の道太郎に、太夫の娘が恋をする。太夫は道太郎を止めさせようとするが、道太郎は働き者で人柄も良く、止めさせる理由がない。しかしある日道太郎は子牛を山で無くしてきてしまい、太夫は道太郎に子牛を連れ帰ってくるまで帰ってくるなと追い出す。後に子牛は自力で戻ってくるが道太郎は結局帰らず、太夫の娘も彼を追って山へ入っていってしまった。数年後、太夫の家の裏山で、牛の鳴き声をあげる鬼と、その肩にとまる一羽の白い小鳥を人々は目にするようになった。


◆治郎兵衛ぎつね
立山の辺りに治郎兵衛ぎつねという化け上手の狐がいた。奉行所の役人に化けて人々を驚かせたりと色々な悪さを働いていた。あるとき寺町の皓台寺の和尚が治郎兵衛ぎつねが役人に化けているのを見抜く。後で寺を訪ねてきた治郎兵衛ぎつねに和尚は「尾が出ていたから見つかるのだ。儂が持っている七面ぐり(?)をかぶれば大丈夫なのだが」と言い、狐の化け玉という水晶と交換で治郎兵衛ぎつねに渡した。治郎兵衛ぎつねは翌朝いつものように人々を脅かそうと七面ぐりをかぶって外に出るが、化け玉がないので化けられるはずもなく、すぐにばれてしまって、町のみんなからひどい目にあったという。


◆味噌五郎(出津町)
味噌五郎(巨人)が上(大瀬戸地方)の方から、大城と小城の二つの山をオーコ(竿)でかついで歩いてきたが、疲れたので村の人々に味噌をねだった。村の人々がこれを断ったので、二つの山を峠に放り出してしまった。これが今県立公園になっている峠の頂上の大城公園で下に転がり落ちて島のようになっているのが小城、「竿ばな」という釣りの名所であるつながった岩はオーコだという。


◆矢戸どん(出津町)
平家の落人の魂である「矢戸どん」が、赤い灯籠をともしながらたくさんの騎馬武者を従えてやって来るという。この行列が黒崎の浜から海に入っていくと沖には美しい万灯籠が浮かぶそうだ。しかしこれが見えると海は大暴風雨となり、荒れ狂うという。


◆ナゾかけ和尚(黒崎町)
昔、山寺にナゾかけ好きの和尚がいた。ある日旅の坊さんが六部という人が宿を借りると、「ナゾかけしましょう…」と言う。六部がいくらナゾをかけても和尚さんはすぐに解いてしまうで困ったが、最後に囲炉裏の中の灰をかき混ぜながら「畝、かきたつるは?」と問う。和尚は答えられず、悩んだ挙げ句ふてくされて寝てしまった。三年後、六部が再び訪ねると、あの時泊まった寺は化け物が出ると言って人が寄りつかなくなったと聞く。六部はきっと和尚があの時のナゾが解けないまま亡くなって化け物になったに違いないと思い、そのお寺を再び訪ねると、夜にひとりでにロウソクがつき、「畝、かきたつるは…?」と声がする。六部は「磯の砂と解く。そのこころは、囲炉裏が海で、オキ(火のオキと沖)が見える」と言うと、嬉しそうな顔をした和尚が現れ、ふっと消えてしまったという。
翌朝村を発とうとすると、村人が引き留めるので、六部はそのままその寺の住職にとどまったそうだ。


◆炭焼長者(黒崎町)
あるとき出雲の国で、諸国からたくさんの神様が集まって人々の縁結びをすることとなった。肥前の国の神は人の縁結びだけではなく、自分の娘の縁結びも考えなくてはいけなかった。結婚相手を捜していると肥後の国の神が炭焼の五郎兵衛を勧めた。肥前の国の神は五郎兵衛を説得するが、五郎兵衛は貧乏で嫁を養う自信がなかったので難色を示す。娘が「お金ならあるから…」と言って一分金一枚を差し出すと「それなら」と言って承諾した。五郎兵衛はその一分金を受け取ると、町まで買い出しに出かける。途中で沼で泳ぐ鴨を見て捕まえようと思うが辺りに手頃な石がない。五郎兵衛は手にした一分金を投げて捕まえようとしたが、鴨には逃げられ、一分金も沼の中に沈んでしまった。家に帰った五郎兵衛が事情を話すと娘はあきれたが、五郎兵衛は「あんなものはいらん。俺が精出して一生懸命炭を焼くから」と言った。五郎兵衛は言葉通りよく働いて、そのうち身代もよくなり、子供も十二人できた。辺りの人々からは住吉長者と言われる身分となっていた。それを聞いた筑前のたかみや長者が「宝比べをしよう」ともちかける。たかみや長者が自分の館から一里の間小判を並べて見せたのに対し、五郎兵衛は自分の息子十二人を集め、「これが何よりの宝」と言って芸をさせた。たかみや長者は「さすが神様の申し子」と言って頭を下げたという。


◆五分五郎(黒崎町)
昔、五分五郎という名前の通り親指の先程の大きさの男がいた。右肩にネブカ(葱)、左肩に塩辛鰯を背負って橋を渡っていると川の中からハゼが飛び出してきて五分五郎を呑み込んでしまった。川魚釣りに来ていた子供達がこのハゼを釣りあげ、まな板にのせて包丁でさばこうとすると「深くは切るな、中には人がいるぞ」と声がする。少し皮を切ると五分五郎が飛び出したという。
五分五郎は貧乏なお婆さんと二人暮らしだが、ある日お婆さんが「毎日遊んでばかりいるから、たまには山にでも行きなさい」と言うので、五分五郎は山に登って松の木の枝に座り、景色を眺めることにした。すると下で鬼が相撲を始めた。五分五郎が見入っていると、鬼達は木の上の五分五郎の存在に気付いた。豆粒のように小さい五分五郎と笑い出す鬼達に怒った五分五郎は、木綿針を手に鬼の鼻の中に入っていった。鼻の中を好き放題刺された鬼達は降参し、打ち出の小槌を差し出した。
あるとき、五分五郎は長者の家の二番娘を嫁に欲しいとお婆さんに打ち明けた。お婆さんが長者さんに頼みに行くと長者は「うちの家から五郎の家までの間に金の橋を掛けるなら」と無理難題を言う。それを聞いた五郎は鬼からもらった打ち出の小槌を振り、言われたとおり長者の家まで金の橋を掛けてしまった。約束通り長者から二番娘を嫁にもらった五分五郎は「今度は自分の番だ」と言い、嫁に小槌を振ってもらう。すると五分五郎は六尺(1,8メートル)の美男子になったという。


◆年の晩の金の塊(黒崎町)
「年の晩には金の塊が堀切を通る」という噂を聞いて、百姓の五蔵どんが頬かむりをして家を出た。夜になると向こうから侍が来る。五蔵は手にした杖で打ちかかろうと思ったが気後れしてまごついていると、その間に侍は通り過ぎていってしまった。次は坊さんが来るが、これも気後れして逃してしまう。三番目に座頭が来たので打ちかかると、座頭は一文銭を落として逃げていった。
侍を打てば慶長小判、坊さんを打てば銅貨銭だった。五蔵はがっかりして家に帰ったという。


◆こんにゃく問答(黒崎町)
ある時京都の本願寺から長崎の寺町の皓台寺に「某月某日に無言の問答に参る」という手紙が届く。困った和尚はとんちで有名な「こんにゃく屋」の徳兵衛に身代わりをお願いした。
当日、本願寺の大和尚は徳兵衛と相対すると、何も言わずに指を一本突き出した。徳兵衛はそれに小指を折った手を両手で突き出すと、今度は大和尚は五本の指を出した。それに対して徳兵衛は右目に指を当て、「アッカンベエ」をすると、大和尚は慌てて引き上げていった。後で小坊主がお茶を出しに行くと大和尚は「儂が『一体後生(死んだ後の世界)は?』と聞くと『八方にある』と答え、『極楽浄土は?』と聞くと『冥土にある』と答える。実に驚いた。」と言った。
後日徳兵衛の家を訪ねると、「いや、『おまえんちのこんにゃくはいくらか?』と問われたから『八文する』と答えた。『五文にまけろ』と値切ったのでアカンベエしたら立っていったよ」と答えたと言う。


◆三年寝太郎(外海地区)
昔、ごん助という寝てばかりの男がいた。父親に文句を言われても寝てばかりだったごん助だが、三年寝た翌年、急に起きて畑を耕し、葱を育ててたいそうお金を稼いだ。しかし町からの帰り道、鶴の子が子供にいじめられているのを見て買い取ってしまう。お金を鶴に使い切ったごん助は父に怒られて逃げ出すが、そのうち池のあるところに辿り着く。池の側の高い崖の上には桜の木が植えてあり、池の側には一本の剣と立て札があって「桜の花をとった者には長者の一人娘の養子に入れる」と書いてあった。ごん助が桜の木を眺めていると、一羽の鶴が桜の枝を踏み折って、口にくわえてごん助のところに持ってきた。ごん助はその桜の枝を持って長者の家に行くと、「飛び切りの術を知った者」と言われ長者の養子になり、娘と夫婦になった。ごん助の寝床には戦道具が色々と置いてあり、何も知らないごん助は嫁に弓やら鉄砲やら教えてもらう。夜、嫁が寝るとごん助は弓に矢をつがえてみたくなって引いてみると、矢が飛んでいってふすまを突き破ってしまった。翌朝、倉の下に尻に矢が刺さった泥棒が倒れており、さすが一人婿とごん助は賞賛された。後日狩りに行ったときもごん助は恐くて大岩の陰に隠れていただけだが、ちょうどそこに皆が追い込んだ猪が落ちてきて、ごん助はとどめを刺しただけで大きな手柄を得た。あまりにも都合良くいくものだからついには殿様からお呼びがかかって、堀の一本橋を馬で渡ることになった。馬は名馬だったがごん助の乗り方が下手で堀の中に落ちてしまう。びっくりしたごん助が腰の刀を抜いて上げるとそこには大きな鯉が刺さっていた。これには殿様も喜び褒美をあげようとしたが、ごん助は「褒美の代わりに年貢を無くしてくれ」と言った。その後は里の親を長者の屋敷に招き皆で幸せに暮らしたという。


◆生まれ子の運(外海地区)
昔、とある狩人がシシ狩りに出かけた。しかし猪どころか兎一匹捕まえられず、気がつけば夜になっていた。狩人は夜待ちをすることに決め、鉄砲を構えてクスの木のうろの中に入っていると、夜更けに何やら声がする。不思議なことに、近くの松の木や杉の木がクスの木と話していた。話を聞いてみると、「里で子供が生まれたからなんと泣くか聞いてみよう」と言う。クスの木は「今日は客が中にいるので二人で行ってきてくれ」と答えると、松と杉は里に行き、明け方帰ってきた。「七歳の時、五月の節句の船遊びの時、河童からとられて死ぬと泣いていた」と二人は言った。ちょうど出産をひかえた嫁を持つ狩人が不安がって里に戻ると、案の定自分の子供だった。それから子供は立派に育ったが、とうとう七歳の五月の節句を迎えてしまった。昼頃になると見知らぬ男の子達が船を片手に狩人の息子を誘いに来た。狩人は新しい晴れ着と船を持たせて息子を遊びに行かせた。その日はいい風が吹いたので、子供達は夢中になって船を追いかけ回した。気がつくと夕暮れになっていて、子供達は妙に慌てている。「もう時間を過ごしてしまった」と悔しそうに言うと、息子に向かって「仕方がない、君は長生きしなさい」と言って川の中に消えていってしまった。子供達は皆河童だったのだ。それから狩人の息子は長生きしたという。


◆蜘蛛の琵琶(外海地区)
昔、夜になるとかやかぶに何処からか琵琶弾きがやってきて歌うという話だった。狩人が正体を見極めようと行ったところ、琵琶弾きはいつものように歌っていた。ところが突然琵琶のばちを遠くにとばしてしまって歌うのを止めてしまう。「俺が取ってくる」と言って狩人が琵琶のばちに触れると、琵琶のばちは粘って糸を引き、それを引きはがそうとするうちに全身糸で丸め込まれていた。「これはまずい」と狩人が困っていると、ちょうど一番鶏が鳴き声を上げた。すると何処からか「取って喰おうと思ったが、一番鶏が鳴いてしまった」と恐ろしい声がした。
翌日、狩人は今度は撃ち殺すつもりで猟銃を持っていき、歌声が聞こえると同時に鉄砲で撃った。見てみると、それは巨大なコガネグモだったという。


◆産女の幽霊
昔、長崎の麹屋町の角に飴屋があったそうだ。ある夏の日、飴屋が店じまいをしていたところに、素足で浴衣を着た真っ白な女が現れて、「飴を一文ほどください」と一文銭片手に陰気な声で言う。それから毎晩女は現れるので、店の若者は恐ろしくなって、ある日女の後をつけることにした。すると女は伊良林町の光源寺の門前で姿を消してしまった。若者は驚いて辺りを見渡すと、向こうの墓場の方から赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。若者は腰を抜かして這うようにして寺に入り込み、和尚さんにことの次第を話すと、人を集めて墓を掘り起こすこととなった。するとそこには先日埋めたばかりの女の死体から赤ん坊が生まれていた。よく見ると赤ん坊は若者が売った飴を一生懸命しゃぶっていた。あの女の幽霊はお乳をやれないので飴をお乳代わりに育てていたということだ。
飴屋の若者が赤ん坊を助けてからしばらくしてからのことだ。麹屋町は水に不自由していたが、ある夜、飴屋の主人の枕元に女の幽霊が立って、「先日は赤ん坊を助けてくださってありがとう。お礼に水を出してあげましょう。女物の櫛が落ちていたら、そこを掘ってみて下さい。」と言って消えた。
後日言われたとおり掘ると本当に水が湧き出て、それが今の麹屋町の幽霊井戸だという。


◆カッパ石
長崎の蛍茶屋を登ったところ、本河内水源地の下にある水神社では毎年五月にカッパにご馳走をする珍しい行事があるという。
真夜中、入り口の扉を閉め切った一つの部屋に大勢のカッパたちが集まってくる。人間の用意したご馳走をたらふく食べて帰るという話だが、その姿は誰にも見えず、カッパの叫び声と茶碗や皿のカチャカチャ鳴る音だけが聞こえてくるそうだ。
面白いことに料理の献立には必ず筍の輪切りがあり、主人役の水神社の神主の前には本物の筍を皿に盛り、カッパたちには育ちすぎたカチカチの竹の節の輪切りを盛るらしい。カッパたちは平気で硬いものを食べる神主さんを見てひどく感心するそうだ。
この神主さんは敏達天皇の孫の栗隈王のずっと後の子孫だと言われており、この栗隈王が日本中の水の中の生き物をまとめる偉い人だからカッパたちが神主さんを敬い慕っていると言われていた。
水神社に来客があるときは前日の晩に神主さんが壁に献立表を掛けておくと、翌朝には必要な野菜や魚が揃えられているという。


◆みそ五郎岩
長崎の福田町字大平というところに、みそ五郎と呼ばれる大きな岩がある。
昔、大平にはみそ五郎という力の強い巨人が住んでいた。ある日みそ五郎は福田の小江の浜で、篭いっぱいの貝を拾って、これを肩にからって帰ろうとした。片方の篭には貝を入れ、もう片方には大きな石を入れ、近くの木を担え棒にして下の浜から大平の山の麓までやって来た。みそ五郎は山の頂上に登り始めたが、途中休もうと思って、片方にぶら下げていた石を片手で放り投げてしまった。石は山の真ん中ほどに突き刺さり、今も残っているそうだ。