「いっ・・・てぇ・・・」 パンチを何度目かも数えられなくなった頃、俺は痛みで声を勝手に出していた。 伸ばした手は崩れ落ちて、ふわふわした床にだらしなく倒れている。 腹の重みはすっかりなくなって、いつの間にか、俺は自由になっている。 「あれ・・・・」 惑いと忘却が混ざって俺の中に落ちる。 ゆっくりと目を開らいて、まばたきをする。 明るかった部屋は既に夕日が差し掛かって赤い。 これまでのことが夢のようにぼやけるか、 俺の周りのもの全てが本当だと喚いて、嘘にはならない。 「あー・・・・」 俺の怒りは相手へ吸収されて、呆気なくはじけた。 朦朧とした頭で、一から物事を追い返す。 俺はあいつを犯そうと部屋に連れこんで、罵倒を浴びせて、殴られた。 身体が痛い。夕日ってことは、相当殴れてたはずだ。 ここからは、目覚ましが見えない。 時間を見ようと、だるい身体を起こす。 「いっ・・・・!!」 ・・・が、途中であっさりと痛みに阻まれた。 俺の身体は、俺が思うよりずっと重症のようだった。 そろそろと元の格好に戻り、全身に行きわたるように深く、息をつく。 「ごめん」 幻聴が聞こえる。相手の声だ。 俺の身体は、幻聴が聞こえるほどひどい有様なのか。 「・・・ごめん」 紛れもない相手の声は、まだ聞こえる。 耳を叩いて、低く唸る。 ごめん。そう言いたいのは、俺だ。全部遅すぎる後悔が、俺の中を回る。 思考を取り戻そうと、360度、ゆっくり頭を振る。 「ごめん」 「うわっ!!」 俺が相手を見つけて叫んだのと、相手が三回目のごめんを言ったのはほぼ同時だった。 一瞬、本気で冗談かと思った。 こいつなら、絶対に逃げたと思ってたのに、なんでだ。 犯されそうになって殴りつけた奴がいる部屋にまだ居たのか。 バカじゃないのか。 「・・・ごめん」 相手はベットのすみで本当に小さくなって、体育座りをしていた。 俺が見たことない姿を容易くやってのけて、また謝罪を、機械のように言う。 もう泣く寸前みたいな声に、微かに震えている肩。 そこだけ、空気が淀みきってるようだった。 膝の少し下で組んだ手は赤く腫れて、ほのかに血がついている。 俺を殴って、殴って、殴り倒した、そのままの拳だ。 「お前・・・・・」 俺から出る軋む声。がらがらの喉。惑いがまた襲ってくる。 殴られた時の、相手の狂気がフラッシュバックする。 少し身をこわばらせて、俺は目だけで相手を見る。 相手は俺を殴ったとは思えないほど縮こまって、膝に顔を押し付けている。 「死んだかと・・・思った・・・」 足の奥の暗闇に隠れて表情は見えなかったが、感情はその声で分かった。 どうしようもないくらい震えて、脅えていた。 それは俺のしたことでか、相手自身がしたことでか、 どちらでもない、何でか、俺に、そこまでは分からなかった。 「・・・・・大げさなこと、言うんじゃねえよ」 多少の嘘で、俺はごまかす。 大の字になった身体からは、鈍痛が絶え間なく走っている。 ごめん。死んだかと思った。大げさだ。 俺は何度もまばたきを繰り返しながら、自分と相手の言葉を反復している。 「死んで・・・欲しいくらい、殴った・・・・・・・」 夕日が目に滲んで、まぶしい。 そのまぶしさを唐突にねじ切るほどの言葉は、俺の『大げさ』を払拭するためにも思えた。 伏せた顔で、罪悪にまみれて、それはひどい吐露だった。 俺を殴ってた時のような、搾り出した声は耳をふさぎたいくらい俺の耳にキリキリと響く。 死んで欲しいくらい、殴った。俺を。 高慢な相手の姿はすっかり沈鬱に飲み込まれて、悲しく映る。 俺がさっきまで喉から手が出るほど欲しがっていたその姿は、あまりにも哀れで、虚しかった。 「死んで欲しいくらい・・・・・死んで欲しかった・・・・」 ぬるく俺から出てくる言葉。 それは驚きでも呆然でもない、単純な納得だった。 殺したかったから殴った。 死んで欲しいから殴った。 俺を、殺したかったから、こいつは俺を殴った。 もしかしたら、俺もそれを望んで身体を委ねたのかもしれない。 「ごめん・・・・・・・」 相手は繰り返す。俺たちは何も出来ず、空気は重く下降していく。 赤に汚れて、部屋はつまらなさそうに俺たちを内包している。 打撲と血と痛みに潰れて、俺はひどく例えようのない気持ちになった。 気に入らずに襲って、捩じ伏せて、琴線を掻き毟しるような言葉を吐いて、殴られて、そうさせた俺。 謝る必要も、勝手に罪悪を感じる必要もないこいつ。 暴言はいくらでも吐けて、謝罪はこれっぽっちも言えない俺は、どこまで間抜けで、無様なんだ。 「なんだよ・・・・なんでだよ・・・」 俺の小さい胸の内にぶつかってくる憤りは全部俺から出た錆で、 出てくる言葉は行方のわからないまま、一番大事な部分には届かないではね返る。 今手を伸ばしたって、相手は遠ざかるに決まってる。 嫌悪されようと、無理矢理だろうと、繋がりたかった相手。 今更嫌われたくはないなんて、そんなこと、どうしたら言える。 「・・・しよう」 空からは太陽が消えていって、朱は紺に変わっていく。 喉に引っかかる謝罪にもがく俺の視界に、相手の顔が久しく写る。 まっすぐに前を見た腫れる目が跳びこんで来て、少し曇った眼鏡がそれを覆う。 愛想のない顔は覚悟を決めたように緩くこわばって、 開いた唇はずっと噛みつづけていたのか、紫になっている。 「・・・・・・何を?」 俺から出された声は、自分でも寒気を感じるほど、低く冷たかった。 自傷だけだった思いが、一言で、すぐに怒りに塗り替えられていく。 相手が俺を殴ったつけとして、『それ』を受け入れようとしている感じがしたからだ。 『それ』が何かなんてことは、答えを問おうと分かってる。 俺が、ひたすら望んでたことだ。 こいつとの、ただがむしゃらにするだけの、セックスだ。 「君がやりたがってたこと」 相手はすぐ、早口で言った。 つかえることも、息つぎをすることもなく、 まるでテンプレートの言葉を発する利口な機械みたいだった。 それでも、唇は震えて、目は揺らいで、肩を上下にして荒く呼吸をした姿は、 必死で俺に見せつけるすべての、相手の人間だという証明だった。 「・・・それは、お前の赦しかよ」 いつかと同じように、俺の中で苛立ちが速度を上げていく。 さっき全部の俺への自傷は、相手にむかって突きつけられていく。 相手は目を大きく見開いて、俺を見る。 体育座りを縮める両手が、さっきよりきつく狭まった。 「赦し」 相手は俺の言葉を、鬱血した唇で繰り返す。 眉間へしわが寄って、黒目が素早く左右に動く。 開いた目は、殴りかかった寸前と同じように、ゆっくりと薄く細くなる。 でも、そこに、怒りの色は少しもなかった。 相手の目の奥にあったのは、ただ沈みきった、悲しさだけだった。 「そう考えてんのか、本気で、お前は」 俺の声は震えた。 相手の悲しさに触発されたように、高く震えた。 部屋の落ちた紺色が、たまらないほどその悲しさを助長させた。 なんでだ。なんでだ。なんでだ。 俺は心の裏側でのたうち回った。狂うほど空回る声を出した。 全てが悲しみで充満するようだった。 今すぐ相手の答えを聞きたいがため、俺は相手と培ったすべてを捨てたいとさえ思った。 「・・・・ごめん」 紫の唇がゆっくりと、微かに動いてわななく。 願っていた答えが、間を置いて出る。 相手の仕草が、俺の前に差し出される。 すぐに片手で顔をおおって、相手の薄いまゆ毛がねとりと歪む。 苛立ちよりも焦り。絶望にも似た感情。 そんなの重なって、一瞬に俺の意識は垂れ流されて、空っぽになっていく。 相手の温度を求める右手が微かに持ち上がって、どうしようもなくなって、垂れ下がる。 「・・・なんだよ、なんでだよ」 しぼった声は俺の周りで頼りなく回る。 謝った声が耳に反響する。 頭に、相手の声での、三文字がこびりつく。『ごめん』。 ごめんだと? 「俺は、お前に、赦しが要るなんて思ってねえぞ」 骨がきしむ。まるで血が吹き出るように身体が痛い。 胸につまる息を荒げて吐く。 俺がなぶって奪ったものが、目の前で小さく丸くなる。 不器用に動く芋虫のように、俺の影が、ななめに映る。 「・・・なんで」 相手は硬い姿勢を崩さない。 囚われた目は動かない。甘んじるものはない。 高いトーンからは無愛想も消えていた。 墨をかぶった髪、不健康な肌、がりがりの手足、手のすき間から見える低い温度の目。 「・・・悪いのは俺だろうが!全部!全部だ!!違うか!?」 俺は、それ全部に捕らえられたまま、ありったけの大声で言った。 押さえつけるような大声は、それでも、さっきと同じように震えていた。 浅ましい俺の自虐欲。かぶるべき罪。 目が滲んで、ぎりぎりのところで止まる。 「君らしくないよ、そんなこと言うのは、違う」 俺が強く言っても、相手の罪悪の色は濃いままで揺らがない。 込めたものには怒りさえ感じられた。 「違わねえ!」 こればっかりは、折れることなんてできない。 全て振り払うように、言葉をもっと強く濃く掻き散らかせていく。 俺が得るべきものだ。俺が抱えるものだ。 相手がいつものように『殺されそうだ』となじれば、 今度こそ俺は呆気なく崩れ落ちることができるんだ。 「違う!!」 大声で反動的に力が入ったのか、相手の体育座りが不意にほどけた。 手と足が、歪んだ布団に投げ出される。 相手は弱々しく首を左右に振って、ふらふらとベットから降りた。 おぼつかない動きを見せて、俺に近づいてくる。 手は硬く握られて、赤がかすんで見える。 「・・・違うよ、違うだろ?」 俺のすぐ横まで来て、相手は止まった。 やさしい声が降りそそぐ。なだめるように落ちてくる。 やわらかい、ゆるやかな、あたたかい声。 相手自身が感情をごまかすように、こぼれ落ちる豊かな音。 目線のずっと上に、相手の目がゆっくり映る。 「違わねえよ」 俺の身体全体に、相手の影が重なっていく。 手を伸ばせば、ふれることだってできる。 それでも相手は俺からとてつもなく遠くにいる気がした。 「悪いのは・・・僕だろ」 相手は俺を見下ろしていた。 それでも、もう、相手の体に威圧的な空気はかけらもなかった。 俺がそうなっているように、まるでぬけがらになったように、 今にも打ち崩れそうに、相手は、棒みたく立ち尽くす。 「初めにお前を犯そうとしたのは俺だ」 そうだ。 俺は、お前を、犯そうとしたんだ。 頭でかみ砕いた言葉を、俺は目に入れて相手へ向ける。 声にしたよりも強く、ずっと攻撃的なメッセージ。 それは俺の身体にこびりついた、たしかな横暴さだった。 「でも僕は君を殴った」 相手はそんな俺の思い全部を悟ったように、俺から目を背けて呟く。 自責や後悔が混じったものが、より所をなくして揺れる。 こいつの右手は、どんなにこいつが願ったって、今、白くなることはない。 「その理由を作ったのは俺だろ?」 思えばこいつは初めて、俺の怒りを真正面から受けとめた。 どうともいえない想いが、胸の中で淀む。 滲んだ視界が速度を増して、更にかすんでいく。 手も足も伸ばして、きしんだ身体で、俺は相手を見上げて、不器用に口を曲げた。 あるいは嘲笑と取られる思いが掠ったが、気にしなかった。 相手のズボンをゆるく掴んで、目をつぶる。 「ごめん」 震えた謝罪は、あまりにも簡単に俺の口から這い出た。 それは、この俺から出た、まぎれもない謝罪だった。 目が痛くて熱い。顔も身体も、全てが熱い。 相手は、惑うように俺を見る。 「あ・・・・・」 その戸惑いはそのまま声になって、虚ろにさまよう。 相手はそのまま、力を吸い取られたように床にへたれ込んだ。 「・・・ごめんな」 相手の顔は見れなかった。 真っ黒い窓に目をやって、俺は鈍った声でもう一度言った。 頭を傾けた拍子に目頭から耳筋に向って筋がつたう。 あたたかい水が、髪へ呑まれていく。 どうしようもなくつまらなく、そして下らないのは俺だ。 こんな姿を、無様で見せられないと思ってる俺だ。 「僕は・・・・怖、かった」 歯切れの悪い声が聞こえてくる。 かすれた拙いものが、俺へ伝わる。 身体をひどいように震わせて、相手はまた、顔を片手で覆う。 「・・・おまえ」 がくがく歪む震えが、顔を包む手にまで伝っている。 怖かった。 それはもう回りくどいものなんてひとつもない、相手の本心そのものだった。 俺は、溢れていく気持ちの衝動を抑えることが出来ずに、放り出されたままの相手の片手を、まさぐるように握った。 小刻みに揺れる指先。冷たい指先。 俺の中に、押し込めていた相手の弱さがなだれ込む。 「も・・・う・・・、こんなこと、しねえから」 落ちる相手の視線には俺の手があって、冷たさは変わらないまま、熱い俺の温度を奪っていく。 もうどうにもなりはしない誓いは、停滞して、情けなく響く。 「・・・・ご・・・めん・・」 相手は恐れるようにして顔から手を離す。 思いがかき混ざった目が俺にぶつかる。 口癖のように漏れつづけていた謝罪は、小刻みですがるようにして終わる。 小さい嗚咽は、俺の手に静かに触れる。 「ごめん」 醜い鼻声は、もう、どっちの声かもわからなかった。 俺はあまった手を、背中へよせて引き寄せるようにゆるく力を入れた。 相手は俺の力に倣うように、静かに俺の胸へつっぷした。 痛みや、手の赤さや、えぐったものが消えないのは分かってる。 俺の横暴さ、相手の傲慢さ、それだって今速度を落としてるだけで、決してなくなるものじゃない。 奪ったものは取り戻せなく、掻き毟ったものは変わらない。 やるせなさだけが部屋を徘徊して、周りを巡って、せせら笑う。 それでも、俺たちのこの愚かしい愛しさは、俺と相手が成した今日のことがなくならないように、 野蛮なまま、狂った冗談のように、きっとゆるく成されていくはずだ。 床に、セーターに、染みと水たまりが広がっていく。 塩からい味が、ゆっくりと口に充満する。 墨みたいな相手の髪が、俺の胸の上で、何度も揺れた。 ベットで揺れたときよりもずっと柔らかなその髪の動きを、俺はひたすら追っていた。 うるんで滲んだ視界は、何度ぬぐっても、途切れることはなかった。 BACK |